ある歌手が提唱して毎年行っていたチャリティーコンサートの収益金で、海外の貧しい地域に建てた学校に、代表者である歌手の名前がついているのを見たとき「ちょっと違うんじゃないの。なんで会の名前でなく代表者の名前なの」と思いました。
同じような違和感は、どこの慈善団体にも感じます。関わったことがある幾つかのボランティア団体も、海外に寄付や援助をして、代表が王族や国の重要人物から感謝状をもらっている写真を、内外の人に自慢そうに見せていました。そのたび内心で「それってあなたの手柄なの? 力を合わせたみんなの成果じゃないの?」と思いました。
慈善団体ばかりではありません。会社や事業も社員なしでは成立しないのに、業績のすべてを自分の手柄のように感じている事業主は多いです。実際に「従業員は幾らでも代替えができるが、社長は自分以外ではあり得ない」と勘違いしています。
これは、多くの細胞の集まりである身体を、自分と捉えて満足している人間の自我と同じ構造だということに気づきました。
私は男性に負けない立派なすね毛をしています。それを面白がりこそすれ気にしたことはありませんが、若い頃何度かカミソリで剃ったことがあります。
剃り始めて一、二度は変わりありませんが、三度目くらいから、毛の生え方が変化して来ます。すぐに生えてこないで、皮膚の表面のすぐ下で渦巻いたり、横に這っているのが透けて見えます。すぐに皮膚の外に出ないで、少し伸びた段階で皮膚を破って生えてくるので、突然二センチくらいになります。生えてもすぐに剃られてしまうことに気づいたすね毛が、剃るという妨害に耐える方法を考え、皮下を這うのです。
これを見たとき、すね毛か毛根かは知りませんが、身体の一部分は考えることができるのだと知りました。すね毛自体が剃られていることを感知し、対策を考え、それを実行します。これはすね毛ばかりではありません。
直射日光に当たると、皮膚の組織が損傷するので、皮膚が紫外線を感知し、対策を考え、メラニン色素を皮膚の表面に集めて防御します。
急に寒さを感じると体温を上げる方法を考え、身ぶるいを起こして体温を上げます。
満腹になってもまだ食べるのを止めないと、胃がそれを感知し、それを知らせるために食べすぎ警報であるゲップが出ます。
これらはほんの一例で、体は日常的に起こる様々な異変やトラブルに対して、それを感知し、対策を考え、実施しています。これらの「反応」と呼ばれる身体の組織の働きは、「私」が考えてしているのではありません。組織自体が「私」を通さずに考えて実行しています。
会社や工場で、日常的な異変やトラブルに対して、「社長」に伺いを立てることなく個々の社員や担当部署が感知し、考え、対策しているのと同じです。個々の社員の判断と考えと対策が正しければ会社の業務は正常に維持できます。対外的な経営は別として、社内の業務の成否は、社員の働き次第です。
人間も「私」が何をするかは「私」次第ですが、体が正常に維持されているのは、「私」ではなく体の各組織が、内外の変化を正しく感知し、判断し、対策しているからです。
こう考えたとき、何万人もの社員を抱える社長が「○○会社は俺で、俺は○○会社だ」あるいは「従業員は俺のものだ」と考えていたら大きな勘違いであるのと同じように、何万何億という細胞の判断や働きによって維持されている身体を、「これは私だ」「これは私の身体だ」と考えることも、ブッダが言っているように勘違いだと言うことが分かります。
事実、大会社の社長は、不祥事があるたびに首のすげ替えが行われます。その時「私は○○会社だ」という考えが、ただの思い込みだったことに気づきます。
個人は首のすげ替えや看板替えはしないが、結婚や縁組みなどで姓が変わったりすることはあるし、芸名やペンネームをくるくると変える人もいます。
「私」の体を構成している各器官、組織、細胞も、「私」と同じように音や光や温度や、いろんなことを感じ、考え、考えた通りに行動することができる生物であり、ただ精緻さが違うだけです。私は一人の生き物ではなく、無数の生き物の集合体なのです。だから「私」というのは、今だけ社長の座にある雇われ社長と同じだと理解します。今だけタンマダー。今だけ人間。今だけ日本人。今だけ女性。今だけ初老の老婆。今だけ・・・。
いま呼吸が止まって、体の組織や細胞が働きを止めれば、明日はただの元素の集まりになり、明後日か次明後日にはその元素もバラバラに飛散して、他の人や他の動物の組織の一部になります。
バラバラに分解した機械から、その機械の「働き」が失われるように、バラバラに分解された体から、心身の働きは消え、新たな体として組み立てられた時、また心身の「働き」が生まれる、それだけのもの(サンカーラ)なのですから。