「ブッダは仏教以外の信仰を禁じていないから、従来のいろんな信仰をそのまま維持しても良い」と言う人が時々います。そう言うのを聞く時、既に仏教に関心のある人にそう教えるのは、果たして正しいのかと疑問に思います。
なぜなら私は、「従来の信仰を捨てる必要はない」というのは、古い信仰への執着は、仏教の知識が増えるとともに減少し、最後には無くなるので、まだ仏教を知らない人が仏教の勉強を始め易いように、無理に執着を断つ苦痛を強いずに仏教へいざなうブッダの方便であり、既に仏教に関心のある人が、いつまでも他の信仰を続けて良いという意味ではないと理解するからです。
分かりやすく例えれば、幼稚園や保育園へ一人で行けない子供に、「(初めのうちは)お母さんも教室にいていいですよ」などと言うのと同じで、恐怖心が消えたら、それからは一人で行かなければなりません。一カ月たっても二カ月たっても母親と一緒でなければ幼稚園で過ごせないようなら、その子供はまだ幼稚園の楽しさをまだ知ってないのかもしれません。
他の信仰があれば、その分だけブッダダンマの理解を妨げます。
つまり心に「疑」があります。ブッダダンマだけが完璧な滅苦を可能にするという確信、あるいは信仰があれば、従来の信仰(善を目指す自分がいる宗教)と仏教(自分と感じているものはないとする宗教)の違いが明らかに見えるので、他の神様や神々に祈りや祈願をする気持ちが残っているはずはありません。
他の信仰が残っている間は、「疑」が消えていない証拠であり、他の信仰に従った行動をすれば、まだ「戒禁取」があるので、仏教の本来の目的である滅苦(涅槃)へ通じる流れ(夜流果)には到達できません。
だから、いつまでも他の信仰をしていてもいいと教えることは、質問した人の「疑」や「戒禁取」を断つ機会を封じる行為と同じです。「他の信仰をして良いですか」と質問する人に、「してはいけません」と言うのもブッダの言葉と一致しません。
そのように質問する人は、ブッダの仏教が他の信仰と同じ程度の価値にしか見えないから、そういう質問します。
たとば本物の小判を手にした人は、それまで持っていた偽物の小判を、自然に手放す気持ちになります。偽物を一緒に持って居たい人は、まだ本物の価値が分かっていないのです。つまりブッダの仏教についての知識がないか、あるいは正しい知識が足りないのです。
本当のブッダの重要な原則をある程度学んで知り、良く考えて理解し、実践して多少でも結果を実感すれば、従来の信仰は元より、ブッダの言葉以外の仏教と見なされている知識には関心がなくなります。それと同時に「自分、自分のもの」という感覚が薄くなり、少なくても「この体」は自分のものではないという感覚が生まれます。そうすればそのとき預流果に到達します。
だから私が従来の信仰に関する冒頭の質問に答えるとしたら、「お母さんと手をつないだまま、先生の話を聞いたりお友達と遊んだりしでも、幼稚園で学ぶべき心の成長は、何も期待できませんよ。先々学校で学ぶために、お母さんの手を離すことを目指しましょう」と言います。