信仰を捨てる

ブッダのタンマに関心のある人は、当然「信仰」を好ましく思っていないと思います。神様の存在を信じ、神様に関して誰かが規定したすべてを、ただ「信じる」信仰を、愚かしいと感じ、危険と感じます。しかし一般に信仰と捉えられているのは、神様、ホトケ様(つまり死者、ご先祖)、地元の神様、お釈迦様から鰯の頭まで、そういった類の「拝むもの」だけです。

国語辞典には「信仰とは神仏などを信じて崇めること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分の拠り所とすること」とあります。国語辞典にあるだけしか知らなければ、それくらいしか思い浮かびません。それしか知らなければ、それしか防ぐことはできません。

私が初めて読んだタイの仏教書、チャヤサロー比丘の「心の友」の中で、「信仰とは誰も証明できないことを信じること」と言っているのを読んだ時、それまでの自分の愚かさ、迂闊さに気づき、その「深さ」に衝撃を感じました。

その言葉に出合うまで、どんな言葉も、国語辞典にある以上の深い意味を考えたことはありませんでした。それまで私は言葉を使う仕事に関わっていたので、広辞苑で言葉の意味を正しく知って、正しく使いこなすことだけで満足していました。

国語辞典の解釈の「崇めること」という理解は、幼稚園児でも分かるかもしれません。「教えを拠り所とすること」は、賢い中学生ならそのように観察できます。しかしこの定義は、信仰という言葉の本質を言っています。後でターン・プッタタートの話をたくさん読むようになってから、師は、重要な言葉をみな、本質レベルの深さで定義していることを知りました。しかし「信仰」という言葉のターン・プッタタートの定義は見たことがないので、もしかしたらチャヤサローさん自身の定義かも知れません。

この定義で社会を見ると、近代以前より、人が賢くなっているようにみえる現代にも、たくさんの「信仰」があることに気づきます。

子供にたくさん勉強をさせ、高い教育をつければその子供が幸福になるという現代の考えも、誰も証明していません。教育が原因で幸福になった人をあまり見ません。人がそう言っているだけ、時代の考えを信じているだけです。

栄養を摂れば、あるいはバランスの良い食事をすれば(サプリメント等も含めて)健康で長生きできるというのも、証明されていません。粗食で長生きしている人も、理想的な食事でも短命の人もいます。これも、推測と願望が作り出した、現代の信仰に見えます。

信仰をこの定義で見ていくと、現代流行っているいろんな修行も信仰に見えます。滅苦に到達できると誰も証明した人がいないのに、「到達する」と信じています。時には少し上達した人の噂に興奮することがあるかもしれませんが、それは禅定の面の話で、聖向聖果の発展ではないのに、仏道の進歩と勘違いしています。

感覚的な変化があれば、それ成果と見、好ましい変化があれば成果だと言い、良い変化がなければまだ足りないと言って更に励みます。あるいは手法が正しくないと言って、手法を変えます。これは信仰の特徴と同じです。

ブッダの教えは、実践すれば自分でその成果が感じられる(サンディティコ)ものであり、他人にも、こういう成果があったから「来て見て」と言える(エヒパッシコ)ものです。つまり自分で実証できるもので、信じる部分はありません。

更に見て行くと、幸福自体も信仰であることが分かります。ほとんどすべての現代人は、昔の人と違って、幸福が「ある」と信じています。幸福があると信じているので、それを手にするために必死で「獲得行動」をします。しかし、昔の皇帝のようにすべてを手に入れても、心の苦、体の苦からは逃れられないように、完璧で恒久的な幸福はありません。

幸福は一瞬のもの。水の泡、虹のような、一時的な現象です。水の泡は、一瞬見ることができますが、「ある」とは言えません。虹もしばらくの間しか見えないので、あるとは言えません。ただの現象です。

もっと深く考えると、「自分」というのも信仰だと分かります。私という存在は、泡や虹より少し長いだけで、一時しか存在しないことには変わりありません。生まれて存在して死んで行く、自然物質の変化の一部です。

信仰の愚かさを極力回避したいと望めば、最後には「私はいる」という、誰も証明できない信仰も捨てなければなりません。