「私は正しい」と感じる慢

 ほとんどすべての虐待は「しつけ」という名目で行われ、しつけをする自分は正しいという思いが契機になっています。相撲界の暴行事件、暴行致死事件も、しつけという名目で始まっています。あるいは悪質な煽り運転なども、追い越しや無理な車線変更など何らかの行動でカチンと来た人が、相手が間違っている事を知らしめるため、教えるためにする執拗な嫌がらせです。
 
 駅のコンコースなどで体や傘などがぶつかって喧嘩になるなど、すべての小競り合いも、相手が無礼であると感じて注意をし、その後暴力になる場合が多いです。
 
 このように見て行くと、多くの人間関係の揉め事は、一方もしくは双方が「私は正しい」と感じることから発生しています。「私は正しい」という思いは、怒りや怒りが原因で生じるすべての出来事の共通要素かも知れません。「私は正しい」と感じることは良いことのように見えるのに、なぜこの「私は正しい」という思いが、ほとんどすべての悪を生むのでしょうか。「私は正しい」という感覚をパーリ語でディッティ、あるいはディッティマーナと言い、日本語では傲慢、我慢、漢訳仏典では慢と言い、意地も慢の一つです。
 
(この慢の一種であるアスミマーナ(自己顕示抑。優越感)につて、法話でなく、プッタタート師が書き下ろされた非常に深遠な精神分析があります。関心のある方は是非読まれて見てください)。
 
 プッタタート師はサンダッセタッパダンマという本で、「すべての信仰の頂点である最高に重要な信仰は、自分自身を信じることです。自分自身の信頼は広い意味がありますが、要するに自分は安全だという信頼です。自分は安全だ、自分は正しい、あるいは善いという信頼がなければ、眠れません」と言われています。信仰がなければ眠れないで狂ってしまう他にも、無気力で、何もする気がなく、仕事は衰退し、力が減退すると言い、信仰がない生活は力がないとも言っています。
 
 ここしばらく、私は気力が足りない日々を過ごしていますが、確かに「自分は正しい。自分は善い」という信頼が、以前より減っています。鬱と言われる状態も、自分を信頼できない状態かもしれません。以前、母親が鬱症状で悩んでいる方に、「お母さんと過ごした楽しい思い出、お世話になったこと、有難かったことなど、お母さんに関係ある良い思い出を、できるだけたくさん思い出してください」と提言したら、食事もしない、部屋から出て来ない、顔も洗わない状態だった母親が、途端にケロッとした顔で起きてきて、普通の日常が戻ったとメールを貰ったことがあります、家族が母親の良いことを思い出しただけで、母親は「自分は善い」という正常な信仰を取り戻せたのかもしれません。
 
 ある人から、夫が求に凶暴になったという相談を受けた時、同じように提言したら、それも解決したそうです。良い思い出を思い出すと、楽しかった気持ちや感謝の気持ちが生じるので、それで夫である人は安心して静まり、普段の自分に戻ったと思います。
 
 だから人は自分を元気にするために、いつでも「自分は安全だ。自分は正しい。自分は善い」と信じる信仰があります。安全を求めるのは本能なので、「自分は正しい」という感覚も本能に近いのでしょう。怒られた人、あるいは驚かされた人は、自分の安全を求める気持ちや、自分は正しいと言う信仰が妨害されるので、自分を信じすぎている人は瞬時に怒りが爆発します。
 
本能に近い感覚なら、目や耳が刺激を受け取った時、「私は正しい。だから私を妨害する人、私がしようとすることを妨害する人は一方的に悪い」と考えてしまうのは自動的な成り行きで、習性になっていて瞬時に完結し、考える必要はありません。
 
 同じ本でプッタタート師は、「十分徳がない人物の自分を信じることは邪見になります。両親に対して強情で両親や先生の言うことを聞かない人、この種の自分を信じることは誤った見解になります。その信仰は非常に力がありますが、邪見です。そしてそれは精神面のヤクザで、すべきでないことをし、恥知らずで、厚顔で、何も怖れを知りません。これが狂気の自分を信じることであり、邪見です。少なくとも自慢好きで尊大で、傲慢でほら吹きです」と言っています。
 
 物質主義になった分だけ正しい見解が少なくなるので、これから益々この種の犯罪は増えると思います。しかし一昔前の社会のように、多くの人の心に正しい見解があれば、邪見である「私は正しい」という思いから生じる事件を減らすことができます。道理のない(仏像)信仰である仏教でなく、正しい見解を基本とする仏教の教えに目を向けられる時代が来て欲しいです。