結婚の実相

去年翻訳した話で、どれだったか憶えていないのですが、ターン・プッタタートが「現代の人は家に喜ばせる女性を置いて、それを体良く妻と呼びます」と言っているのがありました。師の話にはいつでもハッとするような部分がありますが、これを読んだ時、改めて「すごい」と感じました。現代世界に生きている人でこのように見える人が、他にいるでしょうか。

ひどくセクシーな女性や、家で家事も何もさせないで一方的に養っている昔の「お妾さん」のような存在なら「喜ばせる女性」と見る人はいるかも知れませんが、ターン・プッタタートは現代のすべての「妻」を夫を喜ばせる存在と見ています。これは、非常に深い本質を見る「心の目」がなければ見えません。

本来『女房』とは家政を切り盛りし、家業を手伝い、親や子を養い、その他いろいろな役割のある「職種」でした。もちろん子孫を残す役割もあります。夫も妻も家という最少社会で役割のある職位でした。だから妻にする女性には「女房」あるいは「主婦」としての技量が求められ、女性は良い妻になるために小さな頃からしつけられ、花嫁修業という教育もありました。

そして良い女房になる女性を選ぶ目がある親や親戚や職場の目上の人などが見つけてくれるのが普通でした。当然男子も長男は長男として、次男以下は次男以下としての教育をされて育ち、一般の子供の教育目標は善い夫、良い妻になることでした。そうすれば当然良い社会人、良い国民にもなります。家庭は家の跡取りである子供を作って、(優秀ではなく)欠陥のない社会人に育て上げる場所でした。

戦後生活が西洋化してから、妻は夫になる人が、夫は妻になる人が自分で選ぶものになりました。自分が選べば、主婦や主人としての資質や能力のある人ではなく、性的に魅了する人になり、その時から「妻や夫」は、勤めを重要とする職種や職位ではなく、「性的に自分を喜ばせてくれる人」になり、家庭は「愛の巣」つまり「愛欲の巣」になりました。家庭が愛欲の巣になると同時に親との同居を嫌い、あっという間に核家族化が進みました。

通常女性は程度の差こそあれ家事や育児をしていますが、それでも現代の妻たちを「喜ばせる女性」と呼ぶのは、現代の夫婦にとって最重要な問題は「性」だからです。一方的に性生活が無くなれば離婚の理由になり、他の人と性の関係ができれば、これも離婚の理由になります。

もちろん経済的な問題や、暴力や人間的に信頼できないなどの理由による離婚や、離婚騒動もあります。しかし現代人は性的な好みで結婚相手を選び、安定した性生活を確保するために結婚し、結婚生活も性に支配されています。極端な場合は性だけ満たされれば他のことはすべて大目に見て、お互いに勝手きままに生きている夫婦もいます。

昔は「夫婦は荷車の両輪」とか「夫は荷車を引く人、妻は後ろで押す人」などと言われましたが、今夫婦で車の両輪に例えられる人はあまりいません。同じ方向を目指して助け合う人ではないからです。夫婦が同じ目的に向かう協力者でなければ、それぞれ勝手な方向へ向かう旅の宿場で出会う「喜ばせる女性」「喜ばせる男性」と、変わりありません。特定単数で長期というだけです。

もちろん精神的なもの、知的なもの、あるいは能力や才能に満足して結婚する人もいます。しかしそれも「自分の性的伴侶としての条件」であり、性と無関係ではありません。そして知識や能力も家政に関係のない知識や能力であり、どういう女性が好みかというだけの話で、性が最重要であることに変わりはありません。だからターン・プッタタートは、「喜ばせる女性を家に置いて、それを体良く妻と呼びます」と言っています。

家に喜ばせる女性がいれば、家庭に居ることは遊廓に居るのと同じで、遊廓に寝泊まりして仕事に通っているようなものです。結婚を望む気持ちは二人だけの愛の巣、つまり二人だけの遊廓に住みたい望む気持ちです。家庭がこのような場所に変化してしまった現在、家庭をもった人が惑溺に陥らずに自分を維持するのは非常に困難です。

ガンジーは36歳の時に禁欲を決意し、妻にも協力を求めて守り続けました。そして、「性的関係がなくなってからの方が妻を人間的に深く愛せるようになった」と自伝に書いています。世間にはセックスレスの夫婦も多いと聞きますが、お互いに喜ばせる関係でなくなった時、お互いの体に渇望が無くなった時、初めて家庭にも心にも静かさが生じるように思います。

しかしそのように見える人はなく、「結婚は愛情が第一」、「幸福な夫婦には愛が不可欠」というような表層だけを見ています。深奥にある愛欲(性欲)を見て、「家庭は喜ばせる異性がいる場所」と見える人、言える人は、ターン・プッタタート以外にいないのではないでしょうか。