仏教という名のヒンドゥー教

タイの仏教の本を翻訳し始めてから十余年の間に、たくさんの「仏教に関心のある人」に出合いました。しかし「仏教に関心がある人」の多くは瞑想に関心がある人であり、ブッダのタンマとその実践は、瞑想の進歩を助けるものくらいに捉えているようです。だから仏教徒であること、清信士、清信女、つまり善男善女(ブッダの教えにしたがって静かで慎ましく、正しい生活をする人)であることにも関心がありません。

本当の意味の仏教徒は善男善女なので、本当の意味の仏教徒でなければすべて悪男悪女であり、悪男悪女は異教徒です。異教徒は当然滅苦に向かう仏教の道を歩むことはできません。日本に限らず、世界中の「仏教に興味がある人」のほとんどが「瞑想に興味がある人」である理由は何なのかを洞察してみました。

それは、インドは中国に次ぐ人口の多い国であり、インドの宗教の多くが瞑想をするからではないでしょうか。インドで繰り返し生きたことがある人がヒンドゥー教のない国々に生まれると、ヒンドゥー教に近い仏教全般に関心を持ち、そして瞑想をして、それを仏教と理解します。

大昔は日本とインドの間に縁はありませんでしたが、インドで生まれた大乗仏教が浸透するにつれて、インドでバラモン(階級)として生きたことのある人が日本に生まれ始めます。バラモンは在家の僧であり、儀式を司る人なので、中世後半から、日本の仏教は葬儀を行なうようになり、妻帯する僧侶が現れ始めます。その後、インドでバラモンとして生きたことがある人との縁を頼って、政治や闘いをする階級であるクシャトリアだった人が生まれて来ると、日本に武士階級が生まれ、武士が政治をするようになります。

江戸時代になるとカーストとよく似ている「士農工商」の身分制度ができました。「士」はクシャトリア、「農」はバラモンと僧侶、「工商」はバイシャで、その下はシュードラに相当します。違うのは、インドではバラモンが制度を作ったのでクシャトリアより上ですが、日本で制度を作ったのが武士だったので、武士を最高位に制定している点だけです。

古代ギリシャにあった身分制度は、市民と奴隷の二階級だけであり、朝鮮半島にあったのは、両班(貴族)、中人(工商)、常人(百姓)、賤民であり、その区分は明らかに異なります。バラモン教の考えなしに、農を上から二番目に規定する考えなど、誰が考えるでしょうか。

なぜバラモン教の人たちが日本にたくさん生まれるようになったのかを見ていくと、インドの北部は、十世紀後半からたびたびイスラム勢力の攻撃を受け、一二〇六年から約三百年間、イスラム王朝に支配されていたのが分かります。つまり、その間、その地域にバラモン教の人は生まれていません。その時代の日本とインドとの接触があったという説は聞いたことはありませんが、不思議なことに戦国時代や安土桃山時代の城の形は、インド北部の家に良く似ています。

たとえば帝釈天、弁財天、毘沙門天鬼子母神などはすべてヒンドゥー教の神ですが、それが日本中に祭られています。それらの神を守護神として祭った武将もいます。これらの事実は、当時の日本には、過去世でインド人として生きたことがある人がたくさんいた、ということを表していないでしょうか。

地図でお寺の記号になっている卍は、ジャイナ教のシンボルマークですが、至る所のお寺にあります。最古のは薬師寺の仏像の足の裏に書かれているものだと言われています。なぜ足の裏かを考えると、仏教ではない印を仏像に密かに書く場所は、足の裏くらいしかないからで、隠れキリシタンが仏像の裏に十字架を書いていたのと同じ心理ではないでしょうか。
その後次第に大胆になり、堂々と表を飾る模様に使われ、お寺の印になりました。

大乗仏教の神々はみなヒンドゥー教から取り入れたものであり、瞑想を修行の王道とすることや、いろんな儀式をあること、大我と一体になることを目指す点などは、パラマートマンと一体になるヒンドゥー教に酷似しています。そして大乗には、ブッダが禁じた「苦行」の類をする宗派もあります。

いろんなタイプの肉食を避けることも、インドのいろんな教義、特にジャイナ教の考え方ですが、江戸時代の日本では四足の動物の肉を食べることを禁じ、中国の仏教は、インドで神聖な動物である牛を食べることを避けました。生類憐みの令のような極端な動物愛護もジャイナ教です。その思想が発展して、食べ物を食べずにミイラになることを崇拝しますが、日本にも即身仏になるお坊さんがいます。

ヒンドゥー教では、ブッダを神の一人としていますが、大乗の釈迦如来も、多くの如来の一人です。以上の様々な角度から見ると、大乗は東アジアのヒンドゥー教ではないでしょうか。


 教義の点から見ると、アッタカター(シンハラ語からパーリ語に翻訳された経)にはヒンドゥー教の経が幾つも混入していると言い、「ヒンドゥー教と仏教の教義の違いは、無我だけ」とターン・プッタタートは言っています。
 
ブッダの仏教は東南アジア一帯と見られていますが、それらの地域の仏教も、宗教儀式があることを見れば分かるように(ブッダの仏教には宗教儀式はありません)、すべての地域で大乗とテーラワーダが混合しています。先ほど述べたように、過去世でヒンドゥー教が沁みついている人が多いので、大乗やヒンドゥー教と同じ部分を好むからです。だからターン・プッタタートがいつも指摘していたように、ヒンドゥー教と共通の部分を好む人ばかりで、正真のブッダの教えの部分に関心のある人はほとんどいません。

だから「仏教と言われているもの」「仏教と信じられているもの」のほとんどは、本当はヒンドゥー教なのです。本当の仏教の教えは、分量で言えば三蔵の四割くらいだと言いますし、内容で言えば「滅苦」や「無我」に関したものだけですが、それらのブッダの言葉に興味を持つ人は、現在のインドシナ半島にも少ないです。

だからインドシナ半島で生きたことがある人が他の国に生まれても、興味を持って近づくのは、やはり「ヒンドゥー教(特にジャイナ教)に酷似している仏教」、「瞑想と慈悲と肉食忌避の仏教」あるいは「仏教という名のヒンドゥー教」でしかありません。

今の世界は、キリスト教徒が約十九億人、イスラム教徒が十億人、ヒンドゥー教徒が八億人、仏教徒が三億人と言われています。しかし三億いる仏教徒のほとんどすべては、実質的にはヒンドゥー教です。

ブッダのライバルだったニカンダ ナターブッダマハーヴィーラ)の教義であるジャイナ教は、仏教と違って、ほとんどインド国外へは広まらなかったと言われていますが、卍のマークが世界中のいろんな教義で使われていることからも分かるように、ベジタリアンや程度を越えた動物愛護家やアンチ毛皮派や、瞑想愛好家や、ヌーディストなどが世界各地にいることからも分かるように、 実際には仏教より遥かに多く、世界中に広まっています。

しかし仏教のように名前が有名でないので、滅苦を目指す本当の仏教の教えを知らないので、西洋人は、日本人でも韓国朝鮮人でも、モンゴルやチベット人でも同一視して「中国人」と呼ぶように、、実はヒンドゥー教の教えや実践を人は仏教と呼びます。

だからブッダのタンマを学び、実生活の中で休まず実践して一つ一つ煩悩を減らす修行ではなく、「修行とは瞑想することだ」と執着している人は、繰り返しヒンドゥー教や大乗の地域で生きたことがあり、心にヒンドゥー思想への執着が沁みついている人かも知れません。