諦めは悟り

自分では解決できない不運に遭遇した時、願いが入れられない時、あるいは思った通りにならない時、傲慢な人は怒りに囚われて抵抗し、気力の弱い人は嘆きや悲しみに陥り、知恵のある人はいろんな画策をめぐらし、いずれにしてもなかなか立ち直れません。現代の人は、常に欲望を叶える機会が多いので、執着が強く、諦めを知りません。

恋人に振られても、家が火事になっても、津波や土砂災害で家財一切と家族を失くしても、人に裏切られても、騙されても、何かで家や財産や家族まで奪われても、いずれにしても恨んだり悲しんだりして時間を費やすことには、何の利益もありません。(考えている間中、際限なく悪い意業を作り続けるだけです)。一時も早く諦めて、今何をするべきかを知り、その時できる「するべきこと」を始める方がよいです。

昔は「諦めが肝心」と言いましたが、最近はそういう言葉を聞きません。私の子供の頃の歌謡曲には、諦めという言葉がよく使われていて、社会が「諦めること」を重要と見ていたことが分かります。最近は「諦め」と言うと、挫折すること、中途で投げ出すこと、辛抱が続かないことなど、悪い意味で使われ、悪い意味の言葉になっているのか、「諦めないこと」と言い、「諦めない」と言う人を支持する傾向にあります。しかし本当の意味の諦めは、最高に良い意味です。

諦めとは、明らかにすることです。高くすることを高めると言い、狭くすることを狭めると言い、弱くすることを弱めると言うように、「める」というのは、前の言葉の状態にすることです。だから諦めるは、明らかにすること、ハッキリさせることです。四聖諦というのは、ブッダが明らかにした四つの真実です。

人が、何かを諦めるには、それなりに深く考えなければなりません。誰かに「諦めなさい」と言われて、「はいわかりました」と諦めることはできません。どうしようもないことを繰り返し考えた末に、たとえば失恋なら、「考えても元には戻らない」とか、「もっと良い人に出会う機会はまだある」とか、「恋愛は苦しいだけなので、もう懲り懲りだ」などという理屈を探しだし、それで納得できれば諦められます。それが、その人のその時のレベルの真実です。

そして、一度諦めた経験は、次に同じ種類の出来事に遭遇した時、簡単に諦められるようになります。そして諦めを繰り返すうちに、諦める時に掴む「理屈」が、だんだん高度になっていきます。そして何度か諦めた経験のあるものには、次第に強く執着しなくなります。

諦めるまでの経過を見ると、生活レベルの「諦め」はレベルが低いだけで、ヴィパッサナーと同じだということが分かります。まだ諦められないうちは、欲望と執着で煮えたぎっていますが、「諦めること」を目標に考える時、いろんな真実や理由を探します。そして諦められたとき、その人がその時見えるレベルの真実を悟ります。

努力して諦めなければ、執着の威力に身を任せて時間を無駄にし、時間の経過と共に執着と憤懣が衰えるのを待つだけなので、どんな低いレベルの真実も掴むことはありません。そして一旦衰えた執着も、疲れて眠った子供が、起きれば再び執着している玩具を握りしめるように、切掛けがあれば再び強い執着に囚われます。

東日本大震災の復興に関してテレビで見て知る限りでは、現代人は非常に諦めが悪いように見えます。阪神大震災の時は、もう少し諦めが早かったように見えました。特に集団で同じ被害に遭っていると、集団で抗議や補償請求する機会があるせいか、津波より原発事故被害の方が、より強い欲望と執着に囚われて、諦めの方向が見えないようです。(心の問題として諦めても、するべきこととして、いろんな手続きや申請はできます)。

諦めれば、何らかの真実を悟ります。諦めに至る思考が重要です。実践の話をしていると、時々(本当の意味の)ヴィパッサナー(観)の仕方を理解できない人がいますが、そういう人は諦めに至る心の過程を経験したことが無く、不満に遭遇すると怒りまくるか、あるいは悲しみに沈んで、後は時が解決するのに任せるような処理をしてきた人かも知れません。


涅槃を目指すにはヴィパッサナーは欠かせません。アーナーパーナサティの最終段階である第四部は、ヴィパッサナーの部であることからも分かるように、瞑想をする本来の目的も、後でヴィパッサナーをするためです。

ターン・プッタタートが「ヴィパッサナー労働者」の中で、経典の中には、花が散るのを見ただけで解脱した人がいると言っていますが、そういう人は、仏教に興味を持ってヴィパッサナーをする以前に、生活の中で諦めを何度も経験して慣れているので、ブッダの手法でヴィパッサナーを始めると、目覚ましく上達すると分かります。

諦めが早い人は、世俗的な意味で「悟っている人」「賢い人」で、その分だけ苦が少なく、タンマの意味の悟りにも近い人です。諦めが悪い人は、「悟っていない人」「まだ愚かな人」で、その分だけ苦が多く、闇の深い人です。「人は挫折によってのみ成長する」という言葉がありますが、良く観察して見ると、人格的成長は挫折によってではなく、挫折を「諦める」ことによって、成長すると気付きます。

そして後で、仏陀が言われている類のヴィパッサナーをする時、すぐにヴィパッサナー上手になります。まだ自然のヴィパッサナーの仕方が分からない方は、「諦める思考過程はヴィパッサナー」と見て、機会がある毎に諦めるようにして、諦めに至る過程をヴィパッサナーの練習にしてください。

『何も、「これは自分、これは自分のもの」と執着できるものはない』という諦めに至れば、その時は阿羅漢です。


執着している子供や友人がいたら、諦めに導く道理を教えて、諦める手伝いをしてやってください。諦める過程は精神的経験そのもので、心の財産になります。努力して諦めずに、時の経過に任せてウヤムヤにすれば、どんなに苦しい体験も、何の薬にもなりません。どうぞ「諦めに至るまでの思考」の重要性を見直して、諦めを最大限に心の向上に役立ててください。