政治にあまり関心はありませんが、最近、どうしようもないほど幼稚になっているように感じます。根本的な制度を整えないで、手っ取り早く手当て(お金)を配る策が増えました。しかも、欠けている所、必要としている層にではなく、ガサツに、誰にでも配ります。幼稚というか、無能というか、もう政治とも言えないように見えます。
昔から大金持ちや領主や国王は、貧しい人に米や布などの施しをしました。自分の財産を分けてやるなら、悪いことではありません。分ける人の徳になります。しかし、国民から集めた税金を無策にバラマキ、いろんな物を無料化し、足りなくなったら増税をするのは悪政、愚策です。対象を精査せずにお金をばら撒くのは、何の能がなくてもできます。多少の能のある人には、却ってできません。
民主主義が入って来たばかりの時代には、何も考えず、「ゆりかごから墓場まで」面倒を見てくれる政治が良い政治と憧れた面があります。そして、ゆっくりとその方向に進んでいます。しかし考えてみてください。税金を払うだけで、国がすべてを面倒見てくれる政治は、自然の法則に反しています。
ほとんどすべての行動には、意業が伴っています。意業と発言が一体になったもの、意業と行動が一体になったもの、そして意業そのものの三種類のカルマによって、私たちが日頃受け取る結果があります。たとえば親の扶養や貧しい人の援助、その他の支援金も、直接お金を渡せば、たとえわずかでも感謝や慈悲の意業があり、その結果(業の報い)は、その人を発展させ、満足できる方向へ後押しします。しかし、給料から天引きされた税金で、国や行政によって親や貧しい人に支払われる時、資金を提供した人の意業はありません。
お金は動きますが、そこにはお金を出す人の善はありません。そして受け取る側も、直接貰うなら、たとえ少しでも、不足でも、よほど根性の曲った罰当たりな人でない限り、感謝こそすれ不満に感じる人はいないと思います。しかし、公的な支援の場合、かなり十分な額を受け取っている人も「まだ足りない」「もっとほしい」と言います。個人から貰うなら、まだ日本人は、遠慮する心を忘れていないように見えますが。
公的支援制度が整備されればされるほど、納税世代の人は徳を積む機会から離れ、徳を積む意志を失い、支援を受ける層は貪欲になり、恩知らずになります。
今のようにどうしようもない政治ではなく、たとえばブッダやアショーカ王のような非常に徳の高い人が、国民から高い税金を集めて、老人も病人も失業者も、すべての人が普通の生活が保障されるような形の、あるいはすべて無料で暮せるような制度にしたら、人間は幸福になれるでしょうか。
仮にそのような制度が立ちゆくなら、物質的には、理論的にはすべての人に必要な物は行き渡ります。しかし人には善を積む機会も意志もなく、貪りを増やす機会ばかりが増えるので、現在の日本のように、煩悩野放しの状態になります。ほとんどの国民がほとんど善を積んでいなければ、その人たちの運勢が落ち目になった時、一斉に困窮状態になります。
他人の世話にならずに生きるためには、他人の世話をしなければなりません。「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」を原則に生きている人は、それ自体が身勝手で、自己中心的で、正しい見解ではないので、最終的には他人の世話にならなければならない状態になり、迷惑を掛ける結果になります。
国民を幸福にするには、物(お金)を行き渡らせることではできません。「すべての人間は自分の業の結果を受け取って生きるので、この世で幸福に暮すためには、欲望を抑えて善い業を積まなければならない」という知識を、国民の常識にしなければなりません。
この国、あるいは市場主義社会はどこも、経済でではなく、著しいカルマの偏りによって、まもなく破滅するように見えます。