「ブッダ最後の旅」の「不放逸」について

ブッダ最後の旅」という本の中に『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』という言葉があります。原始仏教関連の本は少ないので、ブッダの言葉を学ぶ人たちの間でこの本は有名です。しかし、この文の中の『怠ることなく』という語について、私は誤訳だと思います。

この部分の原語は appamaada で、意味は『不注意、迂闊、油断』だからです。水野弘元編のパーリ語辞典では、この語の意味は『不放逸』とあり、国語j辞典にある不放逸の意味は「怠慢、怠惰、勝手気まま」とあります。ブッダ最後の旅の出版年は辞書の出版年の五年後なので、この辞書が元になっているのかもしれません。

しかしappamaadaが不放逸では、ブッダが最期の最後に「勤勉」を説いたことになってしまします。怠けないよう勤勉にするには理性だけあれば足りるし、愚かな類の勤勉もたくさんあります。「勤勉」はブッダ以外でもたくさんの宗教や道徳家が説いています。そして『怠ることなく』勤勉にするのは、通常は仕事や勉強や修行なので、次の言葉が『修行』と訳されてしまいました。

ポーオーパユットー著、野中耕一訳の「仏教辞典」では、訳者は水野弘元の訳語のまま「不放逸」としています。しかし著者が直接三蔵の引用で説明している部分は、『念(サティ)を欠くことなく住すこと、念(サティ)で促しコントロールして、すべての実践・行為を自覚し、責任ある義務を常に念頭において、放棄することなく、真剣に周到に前進すること』とあります。

だから、訳者は「不放逸」という訳語を当てていますが、著者の説明は『不注意や迂闊や油断』という意味の説明になっています。「サティが欠けないよう維持し、サティで管理して、すべての行動を自覚し、義務を念頭におき、真剣に周到にすること」は「怠惰でない」話ではなく、「油断をしない」話です。

このように二つの理解がある場合、一般の人は他の事例を調べてみて、同じ事例がたくさんあれば多い方を正解と見なしがちです。しかし辞書などの根本が間違っている場合、そうした判断法は大きな失敗に繋がります。

仏教辞典の著者であるポーオーパユットーはタイのお坊さんなので、スリランカビルマではどのように使われているか調べる方法もありますが、それも簡単ではないのと、全部が同じ間違いをしている場合もあるので、多数の見解を正解とするのも正しくありません。あるいはみな違う場合は更にややこしくなります。

こんな時はブッダがカーラーマ経で教えているように、「誰が言っているから」とか「どの本にあるから」「みんなが言っているから」「ずっとそう言われているから」「自分の考えと一致するから」などという理由で正しいと判断して信じるのではなく、理由と自分の知性であらゆる角度から熟慮して判断するのが良いです。

「油断や迂闊」でないこと、「周到であること」には、心の静かさ、つまりサマーディ(三昧)と智慧が不可欠です。心に後ろめたさがあれば心の落ち着きは失われるので、サマーディのためには戒も必要です。これで、appamaada『油断のないこと』という言葉には、戒・定・慧の三学が必要になり、仏教の完璧な実践になります。怠けないだけでは、第一義の仏教の実践にはなりません。

もう一つの角度から見ると、不放逸、つまり怠慢、勝手気ままでないことは世俗的な仕事を成功させます。ブッダの教えの実践にも「勤勉」は欠かせませんが、八正道の一項目「正精進」でしかないように、ブッダの教えの実践の「一部」です。迂闊でないこと、油断をしないことは、既に説明したように戒・定・慧のすべてを必要とするので、ブッダの教えの実践のすべてが揃っています。

以上の理由で後者(油断のないこと)は仏教の教え、仏教の実践になり、怠けないことだけでは滅苦に繋がらないことが分かります。世間一般にあるいろんな宗教の教えと同じ(世俗諦レベル)なので、ブッダの仏教の教えや実践ではありません。

パーリ三蔵・長部マハーヴァッガの中の、智慧解脱について説明した言葉に、『彼は注意深くしなければならない仕事を成功させ、そして二度と不注意な人に戻ることはない』というのがあります。この文の「不注意」の部分に「不放逸」つまり怠慢や勝手気ままという意の訳語を使えば、解脱とは『怠慢でなく、勝手気ままでなく、勤勉になり、二度と怠慢に戻らないこと』になってしまいます。

そして前半の『すべての事象』という部分の事象は、サンカーラという語句で、サンカーラとは原因と縁によって生じたものすべてを意味します。しかしブッダが言われる場合、五蘊と世界が同じものであるように、サンカーラは心身のことを言います。山河や木や花など外部のものには目を向けず、世界のすべてを自分の内部である五蘊と見るように、すべてのサンカーラは自分の心身、つまり五蘊を意味し、あるいは行(考え)だけを意味することもあります。いずれにしても自分の内部のものであり、外部のものではないと信じます。

参考までに、この文章のプッタタート師の訳は、『今みなさんに忠告します。すべてのサンカーラ(行、つまり心身)は当然衰退します。今みなさんに忠告します。みなさん、自分と他人の利益(阿羅漢果、あるいは涅槃)を不注意でないことで完璧になさい』です。


このようにいろんな角度から深く読めば(熟慮すれば)、まったくパーリ語を知らなくても、間違いに気づくことができます。文字だけを読んでいたのでは、文字の意味しか分かりません。ブッダの教えを学ぶ時は、いつでもカーラマ経の項目を活用して「これで滅苦ができるか」と熟慮する眼で見ていただきたいと思います。

(誤訳を皆無にするのは困難ですが、重要な言葉の誤訳は、可能な限り修正されなければ、ブッダの教えが歪みます。私の訳文の誤りも、このようにして探し、そして発見なさったら教えていただければ幸いです)。