異常気象の原因・ブッダの言葉から
「ブッダヴァチャナによる縁起」の中の「人間の弱さの縁起」という文章です。これによると、現代人の多くが、不健康であることの原因は、すべての王と役人とバラモン(司祭)と長者と町の人、田舎の人に、ダンマがないことど分かります。
『 比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持していない時代は、すべての役人もダンマを維持していません。
すべての役人がダンマを維持していなければ、すべてのバラモンと長者もダンマを維持していません。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していなければ、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持していません。
すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していなければ、月と太陽の循環も不安定になります。
月と太陽の循環が不安定になれば、星座とすべての星も循環も不安定になり、
夜と昼が一定でなければ、月と旬も一定しません。
月と旬一定でなければ、季節と年も不安定になり、
季節と年が不規則になれば、各種の風も不規則になり、
各種の風が不規則に吹けば、正常な風の秩序も変わり、
正常な風の規則が変化すれば、すべての天人も四散し、
すべての天人が混乱すれば、雨も適度に降らず、
比丘のみなさん。すべての人間が熟していない穀物を食べると、寿命が短くなり、皮膚の異常、衰弱、そして病気が多くなります。
※
比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持している時代は、すべての役人もダンマを維持しています。
すべての役人がダンマを維持していれば、すべてのバラモンと長者もダンマを維持しています。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していれば、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持しています。
すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していれば、月と太陽の循環も安定し、
月と太陽の循環が安定すれば、星座とすべての星も循環も安定し、
星座とすべての星の循環が安定すれば、夜と昼も安定し、
夜と昼が一定ならば、月と旬も一定で、
月と旬一定ならば、季節と年も一定で、
季節と年が安定すれば、各種の風も安定し、
各種の風が規則的に吹けば、正常な風の秩序があり、
正しい風の規則があれば、すべての天人も四散せず、
すべての天人が四散しなければ、雨も適度に降り、
雨が適度に降れば、すべての穀物も安定して熟します。
比丘のみなさん。すべての人間が良く熟した穀物を食べれば、寿命が長くなり、皮膚の色艶があり、丈夫で、そして病気が少なくなります。』
「違法ではないが不適切」と五戒
学問軽視の時代
大焦熱地獄
ブッダヴァチャナによる縁起 第一章の2に、大焦熱という地獄の話があります。
『比丘のみなさん。大焦熱という地獄があります。その地獄で、人物は目で何らかの形を見ることができますが、望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、欲しくない形だけが見え、欲しい形が見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません』。声・臭い・味・触・考えについても、形と同じ様に説明しています。
こんな地獄について熟慮して見ます。ブッダが言われる地獄は、国や地域や大きな施設ではなく、心の中の状態なので、それは人の心の中にあると考えられます。
望ましくない、欲しくない、満足できない形だけが見えると言うのは、目がそのようになってしまうことではなく、見る物すべてが気に入らない状態で、望ましくない、欲しくない、満足できない声だけが見えると言うのは、耳がそのようになってしまうことではなく、聞く事すべてが気に入らない状態で、臭い、味、接触、考えも、みな気に入らない状態です。
極度に蓄積したストレスで劇場型犯罪などに走る人の、事件前の心は、多分、大焦熱地獄ではないかと思います。家庭でも腹が立つことばかり、職場でも腹が立つことばかり、友人と会っても腹が立つことばかり、道を歩いても腹が立つことばかりのような毎日なら、何を見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、何を食べても、何に触れても、何を考えても、すべてはその人が望むものでなく、満足することができません。
見方を変えれば、道理で考えれば得られるはずのないものを望むから、あるいは手に入るものも手に入れる努力をしないから生じる地獄です。望ましい、欲しい、満足できるものに触れられない地獄を、触処(六処で触れる)地獄と言いますが、」鬱病などは、焦熱が現れないだけで同じ状態かもしれません。それは、一瞬も幸福な時間、気が休まる時間が無いので、大変な地獄だと思います。
普通の人は、大焦熱ほどでなくても、職場だけ、家庭だけ、学校だけなどと限定した場所では、望ましい、欲しい、満足できる形・声・香・味・触・考えに触れられない状況になることはあります。
最近テレビで一般庶民の発言を聞くと、ほとんどは批判的な気持ちが生じ、嬉しくない気持ちになっていました。それは、見ている時に、煩悩を焼くサティがないから、触から「嫌い」という感覚、苦受が生じ、その時感じるものは、すべて望ましくない、欲しくない、満足できないものになっていましたが、これも触処地獄ではないかと気づきました。
これは、見ている時だけの一瞬の地獄ですが、地獄であることに違いなく、一日中見ていれば、一日中地獄になります。また他の場面でも同じパターンで、不満ばかりが生じます。だから、気づかずに生じる地獄から出る、自分なりの方法がなければなりません。
そんな時は、「外部のあれが悪い」、あるいは「社会や時代が悪い」と考えずに、「自分の心が焦熱地獄になっているから、満足できるものに触れられない。タンマで考え、タンマて見れば、まったく同じ状況でも、地獄でなくなる」と見れば、世界が変わります。
今あるだけの原因(カンマ)では、現状のよう(タタター)であり、これ以外にはなりません(アヴィタタター)。自分が望む触処に触れる道理があるか熟慮して見れば、当然ないことが分かるので、それでも欲しいなら、正しい方法で正しい原因を作らなければならないと分かります。
あるいは、すべての不満は、「自分は賢い」「自分は尊重されるべきだ」という傲慢から生じるので、「自分はない。あるのは四大種でできた体と心だけ。あるのは自然の法則で変化していくものだけ」、あるいは、「本当に賢い人は、他人の非を見る暇に、自分が苦を消滅させる努力をする」と思い出せば、不満は消滅します。
不満に思うことには、誰にとっても何の利益もないばかりか、自分にも他人にも害があります。今この時を、最も利益のあることに使う方が善いです。
いろんな触に触れる時、しっかりサティを維持して、好き(幸受)、嫌い(苦受)、どちらでもない(不苦不幸受)、の三つの受を生じさせなければ問題は生じません。
不満と火の気は、元から絶たなければいなければいけないと思いました。
般若心経はブッダを否定している
般若心経は、日蓮宗と法華宗以外の日本の仏教宗派が採用している経で、短くて便利なので、良く知られています。私も「お釈迦様の教えをまとめた最短の経」と言われているままに、そう盲信していました。しかし最近全文を読む機会があったので、気づいたことを書いて見ます。
この経は、三十年くらい前に文庫本か新書本で解説を読んだことがあります。しかし当時はブッダの教えを知らなかったので、「色即是空」「空即是色」や、「捨利子」などの言葉を聞いただけで、お釈迦様の教えに違いないと信じ込んでいました。今思えば、これらの内容に関して、何も知らなかったからです。
幾つかの訳があるようですが、その一つを引用します。
『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無限界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得
以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶
先ず、ブッダの言葉である経と違って、主人公がブッダではなく、観自在菩薩がサーリプッタに話している形を採っています。
『照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是』
ここは、空は色と異ならず、色は空であり、空は色であり、受・想・行・識も同じと言っています。
色という言葉をルーパの訳語と見なし、空を無我と解釈すれば、ブッダの教えと同じです。しかし、ブッダの言葉の無我は『無我であるものを「これは自分のもの」「これは自分」と執着してはいけない』という教えに導くためですが、この経は、執着を捨てることに言及せず、ただ空とだけ言っています。
『舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得 』
この部分は「生も滅もなく、汚れも清浄もなく、増えることも滅すことも無い」と言い、「空の中には色・受・想・行・識は無く、目耳鼻舌体身もなく、形声香味触法もなく、眼識も意識もない。無明も明もなく、無明が尽きることも無い。老死も無く、老死が尽きることもない。苦集滅道つまり四聖諦もない。知る(悟る)ことも得ることもない」と言っています。この「何もかもない」という見解は、ブッダが断見と規定している見解の一つで、虚無論、懐疑論、不可知論などと呼ばれるものだと思います。
知る(悟る)ことが無ければ悟った人(ブッダ)もいないことになり、苦集滅道とは仏教の最重要な教えである四聖諦の四項で、四聖諦が無いと言うのは仏教を否定しているのと同じです。苦集滅道が無ければ人は輪廻から解脱できないので、永遠に輪廻を回遊し続けなければなりません。ブッダはこのような見解を邪見と規定しています。
ブッダはすべてのものは「ある」とも「ない」とも断定した言い方をせず、「それが生じる原因と縁があるものは生じ、原因と縁がないものは生じない」と、中間(中道)である言い方をしています。
『以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶』
最後のこの部分は、「解脱を求める人は、般若波羅蜜多によって妨害がなく、恐怖が無い状態になる。三世諸仏も般若波羅蜜多によって、この上ない最高の悟りを得たので、般若波羅蜜多は神の呪文、大智の呪文、何物にも勝る呪文だ。これはすべての苦を除くことができる本物だから、般若波羅蜜多を唱えなさい」と説き、「その呪文は、羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶です」と言っています。
初めの分部は「色即是空」という、ブッダの教えと非常に似ている言葉で関心を持たせ、真ん中の分部でブッダの存在と、ブッダの最高の教えである四聖諦を「そんなものはない」と否定し、最後の分部で、この呪文を唱えれば、(涅槃と同じ)すべての妨害と苦がない世界へ行けますよと誘っています。
全文を読むと、ここで言われている「空」は、無我の状態を表す言葉ではなく、むしろ虚無に近いことが分かります。だから「色即是空、空即是色」という文句は、ブッダの無我を表している言葉ではないと結論できます。
もう一つ、「般若」と「波羅蜜多」という言葉も、仏教の「智慧」と「涅槃への到達を助ける徳」という意味の言葉ではなく、「神の呪文、大智の呪文、比較するものがない最高の呪文」の名前として使われています。これも、仏教と同じ言葉を使って、何もわからない人に呪文を信じさせる技巧の一つと思われます。
実際、この経をブッダ(あるいはお釈迦様)の教えと思っている人が、成立以来の累計では何十億といたでしょうから。
仏教の言葉と、ブッダの筆頭弟子である舎利子の名を、恣意的に誤解させるために使い、「懐疑論論」と「不可知論」を展開し、呪術に誘う経が長い間好まれてきたから、日本人は「死んだらすべてが終わり、何もない」という考えに支配されているのもしれません。
また、呪文を勧めていることは、念仏や題目を唱えること、いろんな祈祷や儀式が支持されること、読経や写経など、本来の仏教にはない呪術的な実践が広まっていることと関わりがあるかもしれません。
いずれにしても、このような趣旨の経が仏教の経と呼ばれ、お釈迦様(多くの人がブッダと同一人物と妄信している)の教えを集約したものと言われていることに驚きを感じます。この経を作った人たちの大胆さと狡猾さ、また真実を知らずにお釈迦様の教えと信じ、(ここにある言葉を)何となく有難いもの、神聖なものと感じていた過去の自分の(無知ゆえの)迂闊さと無関心を感じました。
仏教用語の総入れ替え
今日は私が考える「タンマを読んで理解できない理由」を書いてみます。
まず初めに、「タンマを理解できる」という意味ですが、知識として理解でき、理論として説明できることではなく、すべてが「そうだ、そのとおりだ」と納得でき、罪を恐れる気持ち、悪を恥じる気持ちが生じ、ブッダの教えに対して全幅の信頼(信仰)が生じ、それ以外の教えに興味を失い、ブッダが説いた道を邁進する努力をする決意をしないではいられない心境になることを、私はここで「タンマを理解する」ことの意味とします。本当に理解すれば、当然そのような心境になるからです。
ターン・プッタタートの講義録を読むと、毎回のように、初めにタイトルの説明をし、タイトルに使った語句や関連語句の定義を説明しています。ブッダヴァチャナを読むと、ブッダは、自分が発見した真理を普通の言葉で説いたので、一つ一つ、たとえば貪りとはどういうことか、恨みとはどういうことかと、タンマで意図する意味、タンマの分類や規定を説明しています。なぜなら、普通の言葉で普通に話せば、普通の話、世俗の話しかできません。すべての用語をブッダの規定や分類で定義しなければ、ロークッタラの話にならないからです。
熟慮して見ると、この手間を惜しんで省けば、あるいは軽んじて見過ごせば、正しい理解は望めないくらい、これは「正しい理解」にとって非常に重要に見えます。なぜなら人は言葉を組み合わせて考え、理解するので、話し手と聞き手の言葉の定義が一致していなければ、正しい理解は望めないばかりか、反対に混乱が増し、その人独自の間違った理解を生じさせるからです。
たとえば「東京は・・・」という話をしても、話し手が東京都をイメージして話し、聞く人が二十三区をイメージして聞けば、話は混乱し、聞く人は話す人が伝えたい内容を理解できません。だから「東京二十三区は」とか、「東京都全体」はと、範囲を明確にすれば、それによる混乱は生じません。
タンマの話(この場合は、ブッダの言葉を正確に伝えているもの、つまり正しく理解して実践すれば涅槃に至るタンマ、例えばプッタタート比丘の説くタンマ、あるいはプッタタート師の訳によるブッダヴァチャナ)をする時に使われている仏教用語を、従来の(大乗の)仏教用語の解釈で理解すれば、意味するところが微妙に違うのもあり、あるいはまったく別物の場合もあるので、正しい理解は困難です。
以前にも触れましたが、例えばルーパという言葉を、漢訳では「色」と訳していますが、正しくは「形」で、通常は人の体のことを言っています(英語では corpreality )。色即是空というのは、形、つまり体は空であり、実体がないので、自分のもの、自分、自分の実体と捉えることはできない、という意味です。形を色と捉えると、意味が曖昧です。ブッダは「なぜ形と言うかは、崩壊する性質があるので、形と言う」と言っています。この文は、色では成立しません。だから色即是空という言葉をイメージして理解できる人がいないのだと思います。
四大種の「土」は、漢訳では「地」と訳されています。辞書を引くと、「土」にも「地」にも「土。地」という説明があるので、まったく同じ意味のようです。物質的には同じ物でも、感覚としては、土は地より意味が狭く、一握りでも土ですが、一握りでは地とは呼びません。地は意味が広く、大地、土地、地面など、ある程度の広がりのある(足の下にある)地球の部分を言うと思います。
「地・水・火・風」は、大乗が見ている世界がすべて外部の自然であることから、外部の大自然をイメージした言葉のようです。ブッダが規定した四大種は、五蘊をすべての世界と呼んでいることから、五蘊の形=体、特に自分の体を構成する四つの要素です。土または地とは、例えば軟膏やクリームを作る時、複数の薬剤をまとめる基剤のようなもの、体積のある要素のことなので、地よりは土の方がイメージしやすいです。だから私は従来の「地」ではなく「土」という訳語を当てています。
八正道の「サンマーサマーディ」は、漢訳では「正定」と訳されています。しかし、サマーディと定も、地と土のように意味している状態は同じですが、表している範囲が違います。サマーディは、仕事でも遊びでも、大人も子供も修行者も、心が一つの感情に専心しているすべての状態を現す一般の言葉ですが、定とは、初禅から四禅までの形禅定だけで、無形禅定以上は、定(ジャーナ)ではなくサマーディ、またはサマーパティです。
三学の戒・定・慧は、原語の意味は、戒・心・智慧です。定という言葉は、定を重んじる人によって、必要以上に多用されているように見えます。
慈・悲・喜・捨は、パーリ語も漢語も、他人を幸福にしたいと願うこと、他人の苦を除いてやりたいと願うこと、他人の幸福を喜ぶこと、動じないことと、それぞれの意味は同じです。しかし、ブッダが言ったのは四梵住で、四梵住は実践の結果として到達する境地ですが、大乗では四無量心と呼んで、大きな修行の柱です。
これは今思いついたほんの一例です。私はほとんどすべての用語が、このように違うと見ています。
日本語には、たくさんの仏教用語が混じっていますが、すべては大乗の言葉の意味で、ブッダの言葉のように緻密な規定がありません。大乗は世俗諦なので、涅槃を目指す話ではないので、国語として通用している意味だけで十分だからでしょう。しかし涅槃を目指すタンマを学ぶ時、厳格に規定された言葉で語られた話を、大乗の不鮮明な意味で解釈すれば、正しい理解は不可能です。
何度も書いているように、タイでもビルマでもスリランカでも、中国台湾、チベットや日本などでも、一般に使われている仏教用語は、普通の人が普通に使っているのを見ても分かるように、本当に滅苦ができる話をするブッダの定義ではありません。すべての用語をその類の解釈で読めば、深遠な話ほど意味が理解できません。話の内容と、語句の定義の種類が違うからです。
世俗諦の話には世俗の定義の言葉で、ローグッタラの話は、ローグッタラの意味の定義を使わなければなりません。プッタタート師がヒト語タンマ語と分けているように、同じ語句でも意味するものが全く違うからです。
しかしプッタタート比丘の話を読まれる人のほとんどは、用語の意味の規定に気づかず、従来の用語の智識、つまり「私の理解による仏教用語」でブッダの教えを知ろうとしています。ブッダの教えは、古今東西の誰の教えとも違うので、まったく別世界の話なので、話されている言葉も、世間で話されている一般語とは違う厳密な規定(言葉の定義)があるに違いないと考えて、注意深く言葉の定義に注目する人が、いるでしょうか。
あるいは、ブッダもプッタタート比丘も、しばしば言葉の規定について説明しているので、それを読んで、「これは重要だ」として記憶する努力をする人がいるでしょうか。その部分を注意深く読んで理解して、古い知識を改めて、新たに記憶しなければ、その後の講義を読んでも徒労に近いと言うものです。
疑や戒禁取などのサンヨージャナ(結)を捨てる前の段階で、従来の仏教用語で使われている意味はブッダの教えではないものとしてすべて放棄し、どんなに簡単そうに見える言葉でも、ブッダが規定した意味にすべて入れ替える慎重さが求められます。なぜならブッダの教えと従来の(お釈迦様や仏陀の)教えは、まったく別の体系なので、ブッダの弟子が、お釈迦様の言葉を使うことはあり得ないからです。
あるいは先の二つのサンヨージャナを捨てた場合は、自然にそうしているはずです。また、古い(仏教の)言葉や古い(仏教用語の)感覚を捨てることで、同時に疑や戒禁取は無くなっていきます。
ブッダが規定した言葉ではない、世間一般で使われている意味をそのまま信じているなら、それは古い(本物でない)知識への間違った信頼、広い意味で戒禁取=本当の道でないものを本当の道と執着すること=と言えると思います。
ブッダの規定した言葉の意味に関心を持たず、従来の仏教用語の意味、つまり古い知識を使ってブッダの教えを読むのは、世俗の部屋に座って、窓を開けてローグッタラ(脱世間)の木の実に手を伸ばしているようなものだと思います。
「ブッダの教え」と「仏教と呼ばれている宗教」の教えが全く別物であることが、まだ良く理解できないから、ブッダの教えを読むのに、仏教と呼ばれる宗教の用語の智識で理解できると考えているのです。従来の言葉の定義を使っていれば、どんな論理をを熟慮しても、足はローギヤ(世間)に立っているので、ローギヤの域から出られません。
仏教用語の意味を、すべてブッダが規定したように入れ替える努力を続ければ、その度に二つの世界を繋ぐ窓が広がり、それだけで、いつか気づいた時にはローグッタラの世界にいるかも、つまり聖人になっているかもしれません。