ブッダヴァチャナによる縁起 第一章の2に、大焦熱という地獄の話があります。
『比丘のみなさん。大焦熱という地獄があります。その地獄で、人物は目で何らかの形を見ることができますが、望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、欲しくない形だけが見え、欲しい形が見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません』。声・臭い・味・触・考えについても、形と同じ様に説明しています。
こんな地獄について熟慮して見ます。ブッダが言われる地獄は、国や地域や大きな施設ではなく、心の中の状態なので、それは人の心の中にあると考えられます。
望ましくない、欲しくない、満足できない形だけが見えると言うのは、目がそのようになってしまうことではなく、見る物すべてが気に入らない状態で、望ましくない、欲しくない、満足できない声だけが見えると言うのは、耳がそのようになってしまうことではなく、聞く事すべてが気に入らない状態で、臭い、味、接触、考えも、みな気に入らない状態です。
極度に蓄積したストレスで劇場型犯罪などに走る人の、事件前の心は、多分、大焦熱地獄ではないかと思います。家庭でも腹が立つことばかり、職場でも腹が立つことばかり、友人と会っても腹が立つことばかり、道を歩いても腹が立つことばかりのような毎日なら、何を見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、何を食べても、何に触れても、何を考えても、すべてはその人が望むものでなく、満足することができません。
見方を変えれば、道理で考えれば得られるはずのないものを望むから、あるいは手に入るものも手に入れる努力をしないから生じる地獄です。望ましい、欲しい、満足できるものに触れられない地獄を、触処(六処で触れる)地獄と言いますが、」鬱病などは、焦熱が現れないだけで同じ状態かもしれません。それは、一瞬も幸福な時間、気が休まる時間が無いので、大変な地獄だと思います。
普通の人は、大焦熱ほどでなくても、職場だけ、家庭だけ、学校だけなどと限定した場所では、望ましい、欲しい、満足できる形・声・香・味・触・考えに触れられない状況になることはあります。
最近テレビで一般庶民の発言を聞くと、ほとんどは批判的な気持ちが生じ、嬉しくない気持ちになっていました。それは、見ている時に、煩悩を焼くサティがないから、触から「嫌い」という感覚、苦受が生じ、その時感じるものは、すべて望ましくない、欲しくない、満足できないものになっていましたが、これも触処地獄ではないかと気づきました。
これは、見ている時だけの一瞬の地獄ですが、地獄であることに違いなく、一日中見ていれば、一日中地獄になります。また他の場面でも同じパターンで、不満ばかりが生じます。だから、気づかずに生じる地獄から出る、自分なりの方法がなければなりません。
そんな時は、「外部のあれが悪い」、あるいは「社会や時代が悪い」と考えずに、「自分の心が焦熱地獄になっているから、満足できるものに触れられない。タンマで考え、タンマて見れば、まったく同じ状況でも、地獄でなくなる」と見れば、世界が変わります。
今あるだけの原因(カンマ)では、現状のよう(タタター)であり、これ以外にはなりません(アヴィタタター)。自分が望む触処に触れる道理があるか熟慮して見れば、当然ないことが分かるので、それでも欲しいなら、正しい方法で正しい原因を作らなければならないと分かります。
あるいは、すべての不満は、「自分は賢い」「自分は尊重されるべきだ」という傲慢から生じるので、「自分はない。あるのは四大種でできた体と心だけ。あるのは自然の法則で変化していくものだけ」、あるいは、「本当に賢い人は、他人の非を見る暇に、自分が苦を消滅させる努力をする」と思い出せば、不満は消滅します。
不満に思うことには、誰にとっても何の利益もないばかりか、自分にも他人にも害があります。今この時を、最も利益のあることに使う方が善いです。
いろんな触に触れる時、しっかりサティを維持して、好き(幸受)、嫌い(苦受)、どちらでもない(不苦不幸受)、の三つの受を生じさせなければ問題は生じません。
不満と火の気は、元から絶たなければいなければいけないと思いました。
般若心経は、日蓮宗と法華宗以外の日本の仏教宗派が採用している経で、短くて便利なので、良く知られています。私も「お釈迦様の教えをまとめた最短の経」と言われているままに、そう盲信していました。しかし最近全文を読む機会があったので、気づいたことを書いて見ます。
この経は、三十年くらい前に文庫本か新書本で解説を読んだことがあります。しかし当時はブッダの教えを知らなかったので、「色即是空」「空即是色」や、「捨利子」などの言葉を聞いただけで、お釈迦様の教えに違いないと信じ込んでいました。今思えば、これらの内容に関して、何も知らなかったからです。
幾つかの訳があるようですが、その一つを引用します。
『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無限界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得
以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶
先ず、ブッダの言葉である経と違って、主人公がブッダではなく、観自在菩薩がサーリプッタに話している形を採っています。
『照見五蘊皆空 度一切苦厄
色不異空 舎利子 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是』
ここは、空は色と異ならず、色は空であり、空は色であり、受・想・行・識も同じと言っています。
色という言葉をルーパの訳語と見なし、空を無我と解釈すれば、ブッダの教えと同じです。しかし、ブッダの言葉の無我は『無我であるものを「これは自分のもの」「これは自分」と執着してはいけない』という教えに導くためですが、この経は、執着を捨てることに言及せず、ただ空とだけ言っています。
『舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得 』
この部分は「生も滅もなく、汚れも清浄もなく、増えることも滅すことも無い」と言い、「空の中には色・受・想・行・識は無く、目耳鼻舌体身もなく、形声香味触法もなく、眼識も意識もない。無明も明もなく、無明が尽きることも無い。老死も無く、老死が尽きることもない。苦集滅道つまり四聖諦もない。知る(悟る)ことも得ることもない」と言っています。この「何もかもない」という見解は、ブッダが断見と規定している見解の一つで、虚無論、懐疑論、不可知論などと呼ばれるものだと思います。
知る(悟る)ことが無ければ悟った人(ブッダ)もいないことになり、苦集滅道とは仏教の最重要な教えである四聖諦の四項で、四聖諦が無いと言うのは仏教を否定しているのと同じです。苦集滅道が無ければ人は輪廻から解脱できないので、永遠に輪廻を回遊し続けなければなりません。ブッダはこのような見解を邪見と規定しています。
ブッダはすべてのものは「ある」とも「ない」とも断定した言い方をせず、「それが生じる原因と縁があるものは生じ、原因と縁がないものは生じない」と、中間(中道)である言い方をしています。
『以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶』
最後のこの部分は、「解脱を求める人は、般若波羅蜜多によって妨害がなく、恐怖が無い状態になる。三世諸仏も般若波羅蜜多によって、この上ない最高の悟りを得たので、般若波羅蜜多は神の呪文、大智の呪文、何物にも勝る呪文だ。これはすべての苦を除くことができる本物だから、般若波羅蜜多を唱えなさい」と説き、「その呪文は、羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶です」と言っています。
初めの分部は「色即是空」という、ブッダの教えと非常に似ている言葉で関心を持たせ、真ん中の分部でブッダの存在と、ブッダの最高の教えである四聖諦を「そんなものはない」と否定し、最後の分部で、この呪文を唱えれば、(涅槃と同じ)すべての妨害と苦がない世界へ行けますよと誘っています。
全文を読むと、ここで言われている「空」は、無我の状態を表す言葉ではなく、むしろ虚無に近いことが分かります。だから「色即是空、空即是色」という文句は、ブッダの無我を表している言葉ではないと結論できます。
もう一つ、「般若」と「波羅蜜多」という言葉も、仏教の「智慧」と「涅槃への到達を助ける徳」という意味の言葉ではなく、「神の呪文、大智の呪文、比較するものがない最高の呪文」の名前として使われています。これも、仏教と同じ言葉を使って、何もわからない人に呪文を信じさせる技巧の一つと思われます。
実際、この経をブッダ(あるいはお釈迦様)の教えと思っている人が、成立以来の累計では何十億といたでしょうから。
仏教の言葉と、ブッダの筆頭弟子である舎利子の名を、恣意的に誤解させるために使い、「懐疑論論」と「不可知論」を展開し、呪術に誘う経が長い間好まれてきたから、日本人は「死んだらすべてが終わり、何もない」という考えに支配されているのもしれません。
また、呪文を勧めていることは、念仏や題目を唱えること、いろんな祈祷や儀式が支持されること、読経や写経など、本来の仏教にはない呪術的な実践が広まっていることと関わりがあるかもしれません。
いずれにしても、このような趣旨の経が仏教の経と呼ばれ、お釈迦様(多くの人がブッダと同一人物と妄信している)の教えを集約したものと言われていることに驚きを感じます。この経を作った人たちの大胆さと狡猾さ、また真実を知らずにお釈迦様の教えと信じ、(ここにある言葉を)何となく有難いもの、神聖なものと感じていた過去の自分の(無知ゆえの)迂闊さと無関心を感じました。