如来と如行


ブッダは自身を呼ぶ時『タターガタ』という言葉を使っていました。この世界から向うの世界に行ったような人という意味です。漢訳では如来、つまり「来たような人」と訳されているので、意味は正反対です。大乗の仏陀は向うの世界の人で、衆生を救うためにこの世界に現れたので、原語とは反対に「来たような」という意味の如来と訳したのだと推測します。

というより、ブッダが「如行」と呼んでいた言葉を如来に変化させて、超人的人物を創り上げたと言う方が正しいかもしれません。

私もつい最近までは何の疑いもなく、辞書にあるままに「タターガタ」を「如来」と訳して来ました。しかし最近「ガタ」は「行った」であり、「タターガタ」は「行ったような人」で「来たような人ではない」と気付きました。
 
ブッダは自身を呼ぶ時にそれまであった「私」という意味のどんな言葉も使われず、『この世界から向うに世界へ行った人』という明らかな意味のある「タターガタ」という言葉を使われているので、「行ったような人」を「来たような人」と訳してはいけないという考えに至りました。その名を読む度、呼ぶ度に「ブッダはこの世界から苦のない世界へ行った人というイメージが作られず、反対に「この世界に来た人」というイメージに染められてしまうからです。
 
私は、ロークッタラ(脱世間)の世界の話しをするには、すべての語句をブッダの意図と一致する訳語にしなければならないと考えています。
 
五蘊や六処の「色」の原語は「ルーパ」で「形」という意味ですが、漢訳では「色」と訳されています。これも初めは辞書にあるまま「色」と訳していましたが、本当の意味は形であり、「形」を「色」と訳す自分自身で納得できる理由がないので、気付いた時から「形」という言葉に訳しています。
 
中には「永年『色』という訳語が定着しているので混乱する」と忠告して下さる方もいますが、五戒の不妄語でも十善業の不妄語、不綺語でも真実でないことを言うのを避けなければならず、あるいは他のどの経の何を見ても、「事実はどうあれ、従来どおり色にしておきましょう」と言う根拠にする教えがありません。千年も二千年も、どんなに長く使用されてきても、誤りと気付いたら気づいた時に正しく改めるべきだと思います。
 
何かの誤りでも、意図して別の訳語にした場合でも、テーラワーダ、あるいは南伝仏教で使う時は「如行」、あるいは「行ったような人」という意味のもっと良い訳語にするべきだと思います。でなければ滅苦に至る実践であるブッダの教えと一致しません。
 
そんな訳で、過去の大部分の作品の「如来」を「如行」に修正しました。慣れるまで違和感があるかもしれませんがお許しいただきたいと思います。パーリ語の翻訳の問題で先生と意見が合わず(従来の訳に疑問を感じ)、バンコクでのパーリ語の勉強を止めて帰郷し、自分で納得のいく翻訳をする決意をされ、スワンモーク寺を作られたプッタタート師なら支持してくださると信じます。

 追記: 最近スアンモーク・バンコクから、現在タイで使われている何種類ものパーリ語辞典を頂戴しました。それを見ると「タターガタ」は、「そのように行った人」という意味だそうです。

日本の文化

 日本の文化は、世界中のどの国とも違う独特なものがあります。アジアの文化はインドや中国の影響がありますが、日本は同じ中国文化圏のどの国にも似ていません。災害や大参事などが起きた時の被災者、被害者の態度の冷静さ、穏やかさに、中国や韓国の人は驚きを口にします。2014年のサッカーワールドカップで、日本人サポーターがゴミを拾っている情景は、世界中から称賛されました。

 日本では普通に善良な人にとって当たり前のことであり、日常的にしていて身についていることで、つまり文化です。どの国にも当然そのような習性の人は居ますが、一部の人であり、文化と言えるほど幅広くありません。少数の善人だけでなく、普通の人にそのような良い習性があることが日本文化の特徴だと思います。


 外国では災害や暴動時には、周辺店舗での略奪などがありますが、日本では聞いたことがありません。


このように秩序があり、暴動や騒乱がなく、我先にと自分の利益を掻き寄せず、平常心を維持できるのはなぜかと、ネット上にあるのを読んで、私も興味もって熟慮観察して見ました。


 まず宗教に注目して見ると、儒教は中国も韓国もあり、仏教も儒教道教ほどでなくても、中国にも韓国にもあります。しかし日本の仏教は、天皇や政事に関わる人、文化人たちに支持され、知識者の間に広まり、江戸時代には国教にされ、僧侶が教えを説くことは禁止されてはいても、国中に(大乗)仏教の文化が広まった、これは大きいと思います。


 「仏教と言う名のヒンドゥー教」で書いたように、中世以降の日本の仏教は、内容的にはヒンドゥー教ですが、世俗諦と第一義諦が違うだけで、道徳面では仏教もヒンドゥー教もまったく同じなので、ターン・プッタタートが「仏教徒文化」と言っているものが、日本文化にもたくさんあります。


 それでは、日本の文化は、仏教文化の影響なのかと言えば、タイ人と日本人の考え方や文化はまったく違い、タイとビルマスリランカは同じテーラワーダでも、文化はみな違うので、宗教に由る物でもないと見えます。


他のアジアの国々と比較した時、社会にある道徳的な教えには、それ程差はないように見え、教えの量で言えば、テーラワーダ仏教の地域の方が多いように感じます。


 そこで、どの国とも違う決定的な違いはサマーディではないかと思い至りました。そして、日本人に他国民より深いサマーディを与えているのは、「日本語」ではないかと思い至りました。日本語は、中国、韓国、インドなどの言語との共通点も多くありますが、日本語だけの特徴は謙譲語があることだと思います。敬語は、アジアの国王、大王が存在した国には、庶民の言葉と違う特別の王語があり、複雑で厳格な敬語があります。


しかし、同じ庶民間で使われる敬語は非常に少なく、使っても丁寧語で、謙譲語があるのは、日本語だけのように思います。


敬語は、相手を持ち上げる言葉で、謙譲語は、相手より自分を低めて、間接的に相手を持ち上げる言葉で相乗効果があり、持ち上げられた相手と低めた自分の差は更に大きくなります。


敬語の使い方は非常に難しく、子供はほとんど使うことはできず、中高生くらいから少しずつ知識を得て、大人になってやっと使うことを知ります。初めに相手との身分の違いを認識し、それにふさわしい敬語や謙譲語、丁寧語を選ばなければならず、丁寧過ぎても失礼、あるいは失笑を買うので、その使用には高い知性を必要とし、すべての敬語と謙譲語と丁寧語を完璧に使いこなせる人は滅多にいないくらい、難しいです。


日本では立場や身分は同じでも、ほとんど違いは無くても、あるいは身分や立場の低い相手に対してさえ、敬意を表すために敬語や謙譲語を使う人がたくさんいます。


敬語や謙譲語を使う時は頭が冴えて心も静まっていなければ正しく使うことができないので、日常的に敬語や謙譲語や丁寧語を使っていれば、その時は常自覚があります。敬語を使っている時心に傲慢は減り、謙譲語を使う時は更に傲慢が減っています。


 言葉は心を支配し、心は人を支配するので、日常的に「貴様」「てめえ」などの言葉を使っていれば、次第に心が荒んで、自我が強くなり、いつでも怒りが生じる状態にあるのと反対に、日常的に敬語や謙譲を使っていれば、傲慢さが減り、心が穏やかになり、サマーディがあり、そして自我が減ります。

身分制度があった江戸時代には、敬語の使用は必須で、与太郎レベルの人以外は身分が上の人や目上の人に対して敬語を使っていたので、一般人の平均的サマーディが、他の文化の人より深く、その結果職人の技術の高さ、すべての職業人の道徳の高さなど、日本の独特の文化として開花したと推測します。




明晰な言葉を使う


 ブッダヴァチャナ・シリーズを読んで感じたのは、ブッダは何かの話をする前に、必ずその言葉の定義を、例えば「苦とは、こういう意味です」と明瞭に説明していることです。
 
それまでなかったロークッタラ(脱世間)の世界を説明するのに、世俗の言葉以外に使う言葉がないので、生活で使っている言葉に、新たな意味を定義したからです。すべての言葉を新たにキッチリ定義することで、ロークッタラの概念の説明を、弟子たちに理解させることができました。
 
 ターン・プッタタートも、講義あるいは法話をする時、初めにタイトルの言葉を、世間で使っている意味と、ブッダが言われている意味の両方を説明をして理解させ、途中でも新たな語句が現れる度に、必ず言葉の説明をしています。
 
 これは、ターン・プッタタートがブッダを真似ている訳ではなく、正確に話して伝えようとすれば、必ずそのように、語句の定義を明瞭にしなければならないということに気づきました。翻訳者が訳文を書く時、極力、意味を辞書で確認しなければならず、「それは、その、そのような意味だ」と言う程度の理解では使わないよう心掛けるべきなのと同じです。
 
 すべての言葉の定義が正確ならば、文章全体、あるいは考えは、江戸組子のようにしっかり組み合わさりますが、すべての言葉の定義が曖昧なら、小学生の工作のようにどの部分も歪んでぐらぐらします。
 
スーパーへ行く家族に、納豆を頼んだ時、私は欲しい物が決まっているので、できるだけ正確に伝わるように、「国産中粒納豆」と言ったら、欲しかったのと違うメーカーにも同じ名前のものがあり、そちらを買って来ました。別のメーカーにも同じ名前があることを知らなかったので、メーカーまで指定しなかったことによる失敗です。つまり、その時私が伝えた「納豆」という言葉の定義が、曖昧だったからです。
 
言葉は話したり書いたりする時に使うだけでなく、何かを感じる時も考える時も概念を自分の言葉に変え、その言葉を使って考えています。記憶も、映像で記憶する部分と言葉で記憶する部分がありますが、思い出して話す時は言葉にします。だから人は朝目覚めてから夜眠るまで、一日中一生、ほとんど休みなく言葉に関わっています。声のない人も心の中では言葉で考えています。
 
だから曖昧な言葉を使っていれば、すべての考えや認識は小学生の木工のように圧すだけで壊れてしまうかもしれません。そのような曖昧さいい加減さを回避するために、ブッダやターン・プッタタートはいつも語句の説明をしているのだと気づきました。そして明瞭な言葉で認識し考えている人の頭の中には曖昧さがなく、すっきり整然としていると信じます。
 
血は体のすべての部分と関わりがあり、綺麗な血、汚れた血、足りない血、血液型の違い、血は体のすべての部分の状態を左右します。同じように言葉はすべての考えを支配して人間のすべての行動に関わり、知らぬ間にそれの有り様を左右しています。

  ターン・プッタタートのように言葉を正確に使えば頭脳は冴えて行き、心の内部すべてが見通せますが、曖昧な言葉を使っている人の頭脳は混沌としていて、片づけられない人の散らかった部屋のように、何があるか、本人も知らない状態のように見えます。

国語以外の知識がないことは、その人がそれらに関心がないことを示すだけですが、有名人が「私のお母さんが」などと言うのを聞くとがっかりするように、国語、特に話す言葉に関した知識がないと、知性そのものが疑われてしまうことがあるのは、言葉はすべての知識の基盤である以上に、頭脳の明晰さを表すものだからかも知れません。

多分高校の時だったと思いますが、国語の教科書に、嫁いでいく娘の嫁入り道具を揃えられない貧しい母親が、娘に正しい国語(フランス語)を習わせる話がありました。その時はその話にどんな意味があるのか分かりませんでしたが、最近それは非常に正しい考えだと感じます。
 
考えるため、伝えるために、一日中一生使い続ける言葉をいい加減に扱うか、厳格に厳密に扱うかは、その人の心や頭脳の明晰さと深い関係があり、正しい言葉使いを知っていることは、他の知識があることや美しい衣服や装身具で飾ることより、その人を立派に見せ、その人の生涯の幸福に寄与すると思うからです。
 

異常気象の原因・ブッダの言葉から

最近は日本中、世界中で代わる代わる異常気象が起きています。

ブッダの言葉に、異常気象についての言及があります。
ブッダヴァチャナによる縁起」の中の「人間の弱さの縁起」という文章です。これによると、現代人の多くが、不健康であることの原因は、すべての王と役人とバラモン(司祭)と長者と町の人、田舎の人に、ダンマがないことど分かります。

今異常気象は世界中にありますが、よく見るとほとんど邪見の国、ブッダダンマがない国のように見えます。まだ国民に宗教が生きている国は、まだ異常気象とは無縁のように見えます。


『 比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持していない時代は、すべての役人もダンマを維持していません。
すべての役人がダンマを維持していなければ、すべてのバラモンと長者もダンマを維持していません。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していなければ、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持していません。


 すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していなければ、月と太陽の循環も不安定になります。
月と太陽の循環が不安定になれば、星座とすべての星も循環も不安定になり、
星座とすべての星の循環が不安定になれば、夜と昼も不安定になり、
夜と昼が一定でなければ、月と旬も一定しません。

 月と旬一定でなければ、季節と年も不安定になり、
季節と年が不規則になれば、各種の風も不規則になり、 
各種の風が不規則に吹けば、正常な風の秩序も変わり、
正常な風の規則が変化すれば、すべての天人も四散し、

 すべての天人が混乱すれば、雨も適度に降らず、
雨が適度に降らなければ、すべての穀物も平均して熟しません。

 比丘のみなさん。すべての人間が熟していない穀物を食べると、寿命が短くなり、皮膚の異常、衰弱、そして病気が多くなります。



 比丘のみなさん。すべての王がダンマを維持している時代は、すべての役人もダンマを維持しています。
すべての役人がダンマを維持していれば、すべてのバラモンと長者もダンマを維持しています。
すべての役人とバラモンと長者がダンマを維持していれば、すべての町の人と田舎の人もダンマを維持しています。
すべての町の人と田舎の人がダンマを維持していれば、月と太陽の循環も安定し、

 月と太陽の循環が安定すれば、星座とすべての星も循環も安定し、
星座とすべての星の循環が安定すれば、夜と昼も安定し、
夜と昼が一定ならば、月と旬も一定で、
月と旬一定ならば、季節と年も一定で、

 季節と年が安定すれば、各種の風も安定し、
各種の風が規則的に吹けば、正常な風の秩序があり、
正しい風の規則があれば、すべての天人も四散せず、
すべての天人が四散しなければ、雨も適度に降り、
雨が適度に降れば、すべての穀物も安定して熟します。

 比丘のみなさん。すべての人間が良く熟した穀物を食べれば、寿命が長くなり、皮膚の色艶があり、丈夫で、そして病気が少なくなります。』


このことから、日本人の道徳が低下し始めてから、異常気象が始まったので、私たち一人ひとりが道徳をもち、道徳のある市民、国民になり、道徳のある首長を選ぶ知恵があれば、異常気象が治まると知ることができます。
現在でも、市民、国民に、まだ道徳がある国や地域では、異常気象が起きてなく、異常気象は、道徳の消滅が著しい物質的先進国に限っているいことでも確認できます。


「違法ではないが不適切」と五戒


舛添氏が自らの疑惑を払拭すべく調査を依頼した弁護士が、疑惑の対象となっている多くの項目について、「違法ではないが、不適切」と発表しました。違法というのは国の法律の話で、不適切というのは倫理や道徳の話です。今回の騒動を通して、法律と道徳と五戒について、考えて見ます。
 
敏腕と言われる弁護士の威信を掛けての発言ですから、家族旅行や旅行先の食事、台湾で買った支那服や落款などの土産や、神田の書店で買った趣味の本や子供の漫画本までの支出を政務費に計上することは、違法ではないようです。違法ではないのに多くの人に非難されるのは、不適切、つまり正しい人の道である道徳や、多数の人の論理である倫理に反すからです。
 
だから、法律は、道徳より低い決まり、最低限これだけ守らなければならないルールで、道徳は、良識のある人、見識のある人が守るルールで、道徳があれば、社会から良識の人と認められると言えると思います。
 
仏教には、在家のために五戒という戒があります。五戒の二番目、不偸盗戒は「盗まない」ことで、舛添氏の疑惑事項は、表面的に浅く見れば盗みではないので、この戒に触れないかもしれません。しかしそれなら、五戒に触れなくても道徳に反し、人に非難されることになります。
 
仏教は、どんな苦も生じさせない道を教えているので、そして誰にも、あるいは智者や善人から非難されない道なので、どの戒のどの項目でも、それを遵守しても道徳に反し、人に非難されるような戒はあり得ません。
 
だからこの一連の出来事を見ると、五戒の「盗まない」と項目を、ごく浅い解釈で遵守しても、道徳以下であり、善人(清信士、清信女)でも何でもない普通の人、一般庶民から非難される悪の多い人でしかないことが分かります。
 
しかしほとんどすべてのお寺のサイトや仏教のブログで、「不殺生戒。不偸盗戒。不妄語戒。不邪淫戒。不飲酒戒」「殺さない。盗まない。嘘を言わない。不倫をしない。お酒を飲まない」と教えています。
 

ターン・プッタタートは、五戒も八戒も、十戒も、二二七戒も、分け方が違うだけで、守るべき範囲はみんな同じと言われています。戒の数が多くなるほど具体的になりますが、五戒は五つしか項目がないので、一つの項目が守備する範囲は非常に広いです。だからそれぞれの項目の要旨を、しっかり把握しなければなりません。
 
ブッダが言われている不殺生戒は、「他人の体と命に危害を加えない」、不偸盗戒は、「所有者が与えていないものを取らない」。他人の財産に危害を加えない」、不妄語戒は、「他人に、言葉による害を加えない」、「他者が愛して護っている物に手を触れない」、「一切の心を酔わせるものを嗜まない」です。
 
このように解釈すれば、不正な支出も、政治活動に使用する費用は与えられていますが、個人が使用する費用ではないので、与えられていない用途になり、不偸盗戒に触れます。
 
舛添氏の答弁は、不妄語戒(嘘を言わない)には触れないかもしれませんが、終わりがない話、綺語なので、ブッダが意図された範囲の五戒には触れます。
 
また、若者のイジメは、初めの四項のどれにも当てはまるので、当然戒に触れますが、浅い解釈の五戒では、イジメは漏れてしまいます。今はやりの○○ハラスメントと言うのは、不妄語戒に触れます。
 
少し仏教の知識がある人、瞑想をしている人などが、時々「在家は五戒を守るだけで良い」と言うのを耳にします。誰もが、文字通りの五項だけと考えているので、無理はないとは思いますが、狭い意味、浅い解釈の五戒を守ったのでは、「違法ではないが不適切」つまり「不道徳」で、悪の多い凡人から一歩も前進しません。
 
まだ善人に非難されるなら、まだ仏教徒と見なせないかも知れません。自分のために戒を持すなら、目的のために戒を持すなら、従来の解釈の干乾びた五戒でなく、善人、つまり清信士、清信女である凡人になるよう、ブッダが意図された広い意味を知り、その戒の要旨を掴まなければ意味がないと思いました。

学問軽視の時代


以前から、「昔、学問のある人はすべて人格者だったが、戦後、学問のある人即人格者ではなくなった」と感じていました。
 
これに関して、最近私の中で明らかになったことがあるので、書きたいと思います。というのは、今まで私は、学校で教えるような知識をすべて総称して学問と言う、というような曖昧な理解をしていました。しかし最近「学問」という言葉の正確な意味を知る機会がありました。
 
学問とは、文学、哲学、歴史学を言い、物理や化学などを科学、農学や工学、医学は技術と言うそうです。学問の本質は「いかに生きるべきか」で、たとえば原子物理学などは科学で、原子爆弾を製造するのは技術で、爆弾を使用するかしないかを判断できるのは学問だけだそうです。つまり学問とは、仏教の「正しい見解」あるいは無明の反対の明に近いもののようです。
 
これで、昔の知識者はすべて学問のある人だったが、現代の高学歴の人は人格者ではない理由が明らかになりました。昔、技術は親や職場の親方から習うもので、学問と言えば、文学や哲学(フィロソフィではない)や歴史がほとんどだったので、社会の重要な地位にいる人は全員、学問のある人で、大学は学問を身に着けて、人の上に立てる人になるためでした。
 
しかし現代教育のほとんどは、何らかの(職業のための)技術か科学なので、現代教育を受けた人の多くは、「人間としていかに生きるべきか。何が善で、何が悪か。何が重要で何が重要でないか。何をするべきで、何をするべきでないか」という知識である学問を身に着けていないということになります。
 
今の大学生の学部別学生数を調べて見ると、良い資料がなく、女子学生の状態しか分かりませんでしたが、それによると、科学と技術の学部の学生数は、人文科学の学生の三倍くらいでした。男子学生の場合は、推測するに、学生全員に対する人文科学の学生数の比率は、当然女子の比率より低くなると思われます。
 
国民の学歴が高くなった現代も、学問のある人の比率は決して増えてなく、昔と変わらないのではないかという気がします。そして昔は、人の上に立つ人は学問のある人と決まっていましたが、今は学問がない人でも、人の上に立つ機会は平等になりました。
 
いかに生きるべきかを知らない学問のない人たちが、政治や経済やいろんな組織を牽引して行く場合が多くなったので、すべてがあるべき方向へ向かわず、あるべきでない方向へ向かってしまうのかもしれない、と思いました。
 
それというのも、学問と科学技術の違いも、目的も価値も知らず、大学で学ぶものは何でも学問と勘違いし、「人の上に立つには、科学や技術の知識ではなく、それにふさわしい学問が必要」と知らないことが原因だと思います。

今の社会を冒頭の説明で例えれば、今の社会は、爆弾の開発(科学)をする人、爆弾を製造する(技術)人ばかりで、爆弾を使うべき時、使うべからざる時を判断する智慧(学問)を忘れています。

だから学問のない人たちに、高い科学技術の産物であるパソコンが普及した結果、コンピュータは、簡単に大きな犯罪を犯せる道具になりました。

これは、科学や技術の偏重による宗教や道徳の軽視と、大いに関わりがあります。文学・哲学と、道徳・宗教は、切っても切れない深い関係だからです。

大焦熱地獄

ブッダヴァチャナによる縁起 第一章の2に、大焦熱という地獄の話があります。

『比丘のみなさん。大焦熱という地獄があります。その地獄で、人物は目で何らかの形を見ることができますが、望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、欲しくない形だけが見え、欲しい形が見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません』。声・臭い・味・触・考えについても、形と同じ様に説明しています。

こんな地獄について熟慮して見ます。ブッダが言われる地獄は、国や地域や大きな施設ではなく、心の中の状態なので、それは人の心の中にあると考えられます。


望ましくない、欲しくない、満足できない形だけが見えると言うのは、目がそのようになってしまうことではなく、見る物すべてが気に入らない状態で、望ましくない、欲しくない、満足できない声だけが見えると言うのは、耳がそのようになってしまうことではなく、聞く事すべてが気に入らない状態で、臭い、味、接触、考えも、みな気に入らない状態です。


極度に蓄積したストレスで劇場型犯罪などに走る人の、事件前の心は、多分、大焦熱地獄ではないかと思います。家庭でも腹が立つことばかり、職場でも腹が立つことばかり、友人と会っても腹が立つことばかり、道を歩いても腹が立つことばかりのような毎日なら、何を見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、何を食べても、何に触れても、何を考えても、すべてはその人が望むものでなく、満足することができません。


見方を変えれば、道理で考えれば得られるはずのないものを望むから、あるいは手に入るものも手に入れる努力をしないから生じる地獄です。望ましい、欲しい、満足できるものに触れられない地獄を、触処(六処で触れる)地獄と言いますが、」鬱病などは、焦熱が現れないだけで同じ状態かもしれません。それは、一瞬も幸福な時間、気が休まる時間が無いので、大変な地獄だと思います。


普通の人は、大焦熱ほどでなくても、職場だけ、家庭だけ、学校だけなどと限定した場所では、望ましい、欲しい、満足できる形・声・香・味・触・考えに触れられない状況になることはあります。

最近テレビで一般庶民の発言を聞くと、ほとんどは批判的な気持ちが生じ、嬉しくない気持ちになっていました。それは、見ている時に、煩悩を焼くサティがないから、触から「嫌い」という感覚、苦受が生じ、その時感じるものは、すべて望ましくない、欲しくない、満足できないものになっていましたが、これも触処地獄ではないかと気づきました。

これは、見ている時だけの一瞬の地獄ですが、地獄であることに違いなく、一日中見ていれば、一日中地獄になります。また他の場面でも同じパターンで、不満ばかりが生じます。だから、気づかずに生じる地獄から出る、自分なりの方法がなければなりません。

そんな時は、「外部のあれが悪い」、あるいは「社会や時代が悪い」と考えずに、「自分の心が焦熱地獄になっているから、満足できるものに触れられない。タンマで考え、タンマて見れば、まったく同じ状況でも、地獄でなくなる」と見れば、世界が変わります。

今あるだけの原因(カンマ)では、現状のよう(タタター)であり、これ以外にはなりません(アヴィタタター)。自分が望む触処に触れる道理があるか熟慮して見れば、当然ないことが分かるので、それでも欲しいなら、正しい方法で正しい原因を作らなければならないと分かります。

あるいは、すべての不満は、「自分は賢い」「自分は尊重されるべきだ」という傲慢から生じるので、「自分はない。あるのは四大種でできた体と心だけ。あるのは自然の法則で変化していくものだけ」、あるいは、「本当に賢い人は、他人の非を見る暇に、自分が苦を消滅させる努力をする」と思い出せば、不満は消滅します。


不満に思うことには、誰にとっても何の利益もないばかりか、自分にも他人にも害があります。今この時を、最も利益のあることに使う方が善いです。

いろんな触に触れる時、しっかりサティを維持して、好き(幸受)、嫌い(苦受)、どちらでもない(不苦不幸受)、の三つの受を生じさせなけ
れば問題は生じません。

不満と火の気は、元から絶たなければいなければいけないと思いました。