「極楽」は大乗、テーラワーダは「天国」

日本で生まれ育つと、生まれた時から日本仏教がしみ込んでいて、自分が知っている「仏教」が、本家本元の仏教とかけ離れた物と知ることができません。だからそれが普通で、普遍的と思っています。日本仏教の知識がほとんどなく、いきなりタイ仏教の本の翻訳を始めた時、何の疑念もなく、日本で使われている仏教用語を訳語として使いましたが、理解が進むうちに、ブッダが話された言葉の正しい訳語ではないと思い始め、次第に確信に変わっていきました。

   

それまで「色」と訳されていたルーパを「形」にし、「如来」と訳されていたタターガタを「如行」にし、四梵寿、四無量寿などを四梵住、四無量住など、本来の意味と違うと思う言葉や漢字を、それより良いと考える言葉や漢字に変えてきました。そして最近、「極楽」という言葉は、パーリにある「サワンカ」、あるいはタイ語の「サワン」の訳語と違うのではないかと気づきました。

 

極楽は(大乗、あるいは日本の)仏教で、善行をした人が、死後に行くと考えられている世界ですが、パーリ語の「サワンカ」は、ヒンドゥー教にも、キリスト教にも、どの宗教にも使うことができ、仏教だけでないので、「天国」という言葉の方が相応しいと感じます。

 

大乗の極楽は一度行けば、永遠に住むことができるといわれていますが、ブッダの仏教のサワン、あるいはサワンカはしばらくの間で、一定の時間が過ぎれば、また別の世界に移動しなければなりません。

 

そう思うに至って、自分は大乗の用語はブッダの仏教の言葉と同じではないと気づいて何年も経つのに、未だにそれに気づかずに「極楽」と訳していたことに、ちょっと驚きました。文化というものは空気のように人の心に染み込んで、それが日本だけ、あるいはある地域だけの物であることに気づけません。

 

日本人は仏教の教祖を釈迦、お釈迦様、釈尊と呼んでいますが、それは日本だけで、南伝仏教の人や世界の人が、仏教の教祖は釈迦と認めている訳ではありません。

 

南伝仏教には、律蔵、法蔵、論蔵から成る三蔵と呼ぶ聖典があり、大乗には一切経大蔵経と呼ぶ聖典があります。三蔵という名を知らずに、彼らが小乗と呼ぶ仏教の聖典である三蔵を「南伝大蔵経」と呼んでいる人が結構います。これを例えれば、聖書を「耶蘇大蔵経」と呼ぶようなもので、三蔵は大蔵経の元になっている聖典なので、それ以上です。

 

また「僧侶」という言葉、あるいは人も日本仏教独特のもので、南伝仏教の僧は「僧」あるいは「サンガ」であり、日本以外の大乗仏教も僧と呼んでいて、僧侶という言葉は聞いたことがありません。僧侶という呼び方は、江戸時代に国教になった時、住民を管理する役所の働きをするようになり、庶民の相談役である僧、あるいは幕府や大名の顧問である僧を、「僧侶」と呼ぶようになったのではないかと推測します。

   

それはともかく、「僧侶」と呼ばれる人は日本以外の宗教にいないのに、キリスト教の僧侶、タイの僧侶、ビルマの僧侶などと呼んでいるのを聞くと、そう呼んでいる人は、僧侶という言葉はすべての宗教共通と見ていることが分かります。

 

また、南伝仏教の出家や在家が仏像の前で額づく行為を、NHKの番組で「祈る」「祈り」という言葉で表現しているのを、何度も見たことがあります。これも、「人は自分にある考えでしか、他人を見ることができない」と感じます。庶民の中には、祈っている人もいるかもしれませんが、そしてそういう人たちも仏教徒と呼びますが、南伝仏教、あるいはブッダの仏教には「祈り」はありません。仏像に祈って何かをお願いするのでなく、自分がブッダの教えの実践者であること、ブッダの跡を追っていることを忘れないために、ブッダの像に象徴されている「知る人、目覚めた人、明るい人」であることに礼拝しています。

 

生家は臨済宗でしたが、家は仏壇を維持するだけで、だれも熱心でなく、自分は日本仏教に染まったことはないと考えていましたが、生まれながらに「日本仏教」という宗教の教団員なので、その文化による摺り込みのない目で見ることは、考えているよりはるかに難しいと感じました。

タイ式生活様式で猛暑を乗り切る

今日は世俗の話です。毎日猛暑日が続いて、熱中症による死者が、今は年に千五百人を超えています。昔タイ人の友人に、日本では暑さで死ぬ人がいると話した時、「タイには暑さで死ぬ人はいない。反対に、年によっては寒さで死ぬ人がいる」と言ったのを思い出します。

 

タイは寒さに慣れてなく、貧しい家では夜具が十分ないので、たまに強い寒波が来ると、東北地方などでは凍死する事故がありました。(経済が良くなった今はどうか知りません)。

 

日本で熱中症で死者が出るのは、猛暑の対策に慣れていないからだと思います。世界にはもっと暑い国もたくさんあり、当然そうした国では、まだ冷房はそれほど普及していないからです。

 

私は、すべてのタイ旅行の日程の半分くらいの日数は友人の家に泊まり、その生活を見て来ました。タイ人の暑さ対策は、何より水浴だと思います。朝起きると必ず水浴し、仕事から、あるいは外出から戻ると水浴し、寝るに前も水浴し、夜中にじっとり汗をかいて寝苦しい時も水浴することがあります。冷房のない家では、一日家にいると、日に四五回か、それ以上も水浴をします。水浴をすると汗で塞がっていた全身の毛穴が開くので、汗が出られるようになって体温が下がり、しばらくは快適に過ごせます。

 

シャワーや水浴をすると、汗や熱を流すだけでなく、暑さによる全身の疲れも流れ落ちて、心身の元気が回復します。

 

今「水をたくさん飲むこと」と「冷房を使うこと」が猛暑の対策として叫ばれていますが、救急搬送される人も死亡者も年々増える一方なので、ある人たちにとっては実行できない、あるいは実行したくない方法なのかもしれません。

   

私は冷房を使わない体験が十年くらいあり、住まいは熊谷市にも近いのでかなりの猛暑日もありましたが、タイ人式の生活様式で暑さによる不調は来たさずに済みました。

   

暑い日は日に何度でも水浴をし、開放的(ぶかぶか)な服装でいること。そして「暑い」と感じたら、時々冷水で手を冷やすとか、保冷剤で首や腋下を冷やすなどして、血液を熱くしない工夫をすると良いと思います。

また、スイカやキュウリ、冬瓜、緑豆、緑豆春雨、菊茶などを食べると、その後しばらく涼しくなりますが、体が冷える人は、観察しながら試してみてください。

 

人間は必ず何かで死ななくてはならないので、熱中症死は苦が少ないので悪くないと思いますが、物理的な方法で避けられるなら、避けるに越したことはありません。

危機を脱すのは指導者ゆえ

今の日本や世界の状況を考える時、役に立つブッダの言葉が「ブッダヴァチャナの宝箱」にあるので紹介します。

 

指導者ゆえに破滅する

 

 比丘のみなさん。以前にあった話です。生まれつき魯鈍なマガタ(国)の牛飼いが、雨季の最後の月である季節であることを考慮せず、ガンガ(ガンジス川)のこちら岸を調べず、牛を渡らせる場所でない所で牛の群れを追い立てて向こう岸のヴィデーハラッダの北側に渡らせました。比丘のみなさん。その時牛の群れは(どの岸にも上がれなくて)ガンガの流れを泳いで旋回しているうちに、次々と死んでしまいました。

 それは何が原因でしょうか。マガタの牛飼いが生まれつき魯鈍な人で、雨季の終わりの月である季節を考慮せず、ガンガのこちら岸を調べず、牛を渡らせる場所でない所で牛の群れを追い立てて向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせたからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの世界のことに賢くなく、他の世界のことに賢くないサマナ・バラモンたちは誰でも、悪魔の住処である輪廻に賢くなく、悪魔の住処でない非輪廻に賢くない人で、これらのサマナ・バラモンの人たちの言葉を聞くべき、信じるべきと理解する人たちは誰でも苦になり、その人たちの利益になりません。

 

 

危機を脱すのは指導者ゆえ

 

 比丘のみなさん。前にあった話です。生まれつき知恵のあるマガタ国の牛飼いが、雨季の終わりの月であることを考慮してガンガ(ガンジス川)のこちら岸を調べ、牛を渡らせる場所で牛の群れを追い立てて向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせました。

 その牛飼いが、最初に群れのリーダーである雄牛の一群を追い立てて渡らせると、雄牛の群れはガンガの流れを泳いで横切って無事に向こう岸へ渡りました。二番目に力仕事に使う牛と、仕事を覚え始めた牛の群れを追い立てると、その群れもガンガの流れの向こう岸へ無事に泳ぎ着きました。

 三番目に若い雄牛と雌牛の群れを追い立てると、その群れも無事にガンガの流れを横切って泳いで向こう岸へ渡り、それから四番目に子牛と痩せた牛の群れを追い立てると、それも泳いでガンガの流れを横切り、無事に向こう岸へ渡れました。比丘のみなさん。以前にあった話です。

 その日に生まれたばかりの子牛も、母牛の声を追って泳ぎ、ガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ることができました。それはどうしてでしょうか。それはマガタの牛飼いが知識者で、雨季の終わる月であることを考慮し、ガンガのこちら岸を調査し、牛を渡らせる場所から牛の群れを追い立てて、向こう側のヴィデーハラッダの北側に渡らせたからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの世界のことに賢く他の世界のことに賢く、悪魔の住処である輪廻に賢く悪魔の住処でない非輪廻に賢く、閻魔の住処である輪廻に賢く閻魔の住処でない非輪廻に賢いサマナやバラモンたちの言葉を、聞くべき信じるべきと理解する人たちは誰でも、幸福のためになり、それらの人々を支援する利益になります。

 比丘のみなさん。群れのリーダーである雄牛の群れ全部が、ガンガの流れを横切って泳いで無事に向こう岸へ渡ったように、漏がなくなり、梵行が終わり、するべき仕事は何もなくなって重荷を下ろすことができた阿羅漢である比丘たちは、

後から到達した自分自身の利益がある人で、有のサンニョージャナ(生き物を輪廻に結ぶ煩悩。十結)が終わり、すべてを正しく知って解脱した人、それらの比丘も悪魔の流れを横切って無事に涅槃の岸へ渡りました。

 比丘のみなさん。力仕事に使う牛たちと仕事を憶え始めた牛たちが泳いでガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ったように、比丘のみなさん。突然出現し、そしてその段階(浄居天)で般涅槃するアナーガミー(不還)である比丘は、初めの五つのサンニョージャナがなくなったので、その世界から戻ってくる必要はありません。それらの比丘も悪魔の流れを横切って無事に涅槃の岸へ渡ります(戻って来ません)。

 比丘のみなさん。若い雄牛と雌牛の群れもガンガの流れを泳いで横切って無事に向こう岸へ渡ったように、比丘のみなさん。サンニョージャナの三つがなくなり、そして貪・瞋・痴を薄くしたサカダーガミー(一来)である比丘は、この世界にもう一度だけ戻り、そして苦を終わらせる行動をし、それらの比丘たちも、悪魔の流れを横切って、無事に涅槃の岸に渡ります。

 比丘のみなさん。子牛と痩せ牛の群れもガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ泳いで渡ったように、比丘のみなさん。サンニョージャナの三つを終わらせたので当然落ちて普通になることはなく、将来悟ることが確実なソターパンナ(預流)である比丘たちも、悪魔の流れを横切って(将来)涅槃の岸へ直行します。

 比丘のみなさん。その日に生まれた子牛が母牛の声を追って泳いで、ガンガの流れを横切って無事に向こう岸へ渡ることができたように、比丘のみなさん。ダンマの道にそって走る人、信仰の道にそって走る(すべての行を熟慮することで預流向を目指す)人である比丘たち、それらの比丘たちも、悪魔の流れを横切って(将来)無事に涅槃の岸に渡ります。

http://buddhadasa.hahaue.com/takarabako/2-18.html

不邪淫戒の本当の意味

仏教の五戒に不邪淫戒という戒があります。不殺生、不偸盗、不妄語、不飲酒は、文字を見れば大体意味が分かります。しかし不邪淫は、多くの人が「不倫をしてはいけない」と理解していますが、文字の意味と、戒その物の意味は大分違います。

 

ブッダは不邪淫戒について『母が愛護し、父が愛護し、兄弟が愛護し、姉妹が愛護し、親戚が愛護し、ダンマが愛護する女性、夫がある女性、借金のかたの範囲にいる女性、婚約をしている女性に対して、それらの間違った振る舞いをしない』と言われています。だから親が許可した娘なら、あるいは人妻でも夫が許可すれば、そうした人と関係を持つことは禁じてないので「不倫をしてはいけない」という意味はありません。

 

男性に話しているので「それらの女性に対して」と言っていますが、男性にとっても同じで、要旨は「誰かが大切に愛護し、自分の物として愛して惜しむ気持ちがあるもの」何でも、それらの物を犯さないという意味です。

 

この意味を念頭に観察すると、三十年くらい住んでいた家の近所で、旦那が浮気をしたことがあるお宅は、どの家の主婦も綺麗好きで、いつでも家がきちんと片付いているタイプの人でした。家を片付けておくのが好きな人、散らかっているのが嫌いな性分の人は、思い切りよく捨てる術を心得ています。しかし時には、旦那や子供、舅や姑が大切にしている物(大抵は貨幣価値の少ない物)を、無断で捨ててしまうことがあると思われます。

 

実際にそれらのお宅の姑さんが「鍋を嫁に捨てられた」とか、「お櫃を捨てられた」と嘆くのを聞いたことがあります。そうした行為、つまり不邪淫戒に触れる行為(カンマ)が十分蓄積されると、その主婦が大事にしている物や人(旦那)が、他の人に取られるのだと思います。

 

前述の奥さんの一人は、愛用車に塗料で落書きをされ、引っかき傷を付けられたことがありました。今考えると、原因が良く見えます。その奥さんは「他人が大切にしている物を侵害した(捨てた)」ことが原因で、何者かに自分の愛車を傷つけられたのです。

 

我が家でも昔、私が宿根草を植えていた鉢を、草の部分が枯れたので、子どもが勝手に掘り返して、自分が植えたい物を植えてしまったことがあります。その子は子供の時に兄の雑誌の一部を切り取ったこともありました。それから何年もして、大人になってから、婚約者に恋人ができて別れました。こんな小さな仕業も、このように大きな結果を生じさせます。

 

浮気をしたことがある身近な人や有名人の例を観察すると、浮気をしたから浮気をし返されると言う例は滅多になく、夫だけが浮気をするケースが多いです。そして全部片付け好きな奥さんで、家が散らかっているお宅、あるいは普通に片付いているお宅は、旦那が浮気をしたという話は聞きません。大会社の社長などが好く浮気をするのは、そうした人の奥様は綺麗好きな人が多く、家がいつもきちんと片付いているからかも知れません。

 

「不邪淫戒は不倫をしないことだから、貞節な私には関係ない」と思わないで、世の奥様方、あるいは配偶者や恋人のある方は、他人が大切にしている物、特に金銭的価値がない、使い古した他人の愛用品などを捨てる際は、金銭的には無価値に見える品物でも、所有者にとってどれだけ価値があるか分からないので、勝手に処分しないよう、つまり他人の愛惜の思いを尊重するよう、くれぐれも注意が必要です

 

何も考えずに他人が大切にしている物を処分することが原因で、自分が人生で一番大切にしている恋人や配偶者を誰かに奪われる出来事が起こります。そしてそれらの出来事に遭遇した人は、何が本当の原因か知らないので、業の結果を出す縁である人(つまり夫)を恨み、再発を防ぐ方法を知らず、まだ原因を作り続けているかもしれません。

 

このように見ると、不邪淫戒は誰の生活の中にもいつでも犯す機会があり、正しく理解して注意しなければ、恐ろしい落とし穴を自分で掘ることになりかねないと分かります。

コロナウイルスとアパーヤムッカ(破滅の門)

コロナウイルスが最初に日本に入って来た時は、中国人旅行者、あるいは武漢へ帰省後に再来日した中国人、武漢からの帰国者等でしたが、一旦市中に潜在して広まったウイルスは、ナイトクラブやバー、ライブハウス、スポーツクラブなどでクラスターが発生し、急速に市中に広がり、次に欧州旅行から戻った人によって顕在しない感染が広がりました。

これらの業種を見ると、ブッダが「アパーヤムッカ=破滅の門、悪趣への門」と言われた物ばかりと見えます。破滅の門というのは、酒類の常習、夜遊び好き、観劇好き、賭博に耽る、悪友と交わる、仕事を嫌う」の六つです。酒類を飲むことは、心の正常な状態が失われるので五戒で禁じ、ライブハウスや観劇は八戒でも禁じられ、アパーヤムッガにも入っています。世界中が見守った大感染の現場になったクルーズ船は、酒と踊りと賭博と観劇(映画も)と、それらを好む人の全部が揃い、おまけに贅沢三昧まであります。

破滅の門は、財産を失う、信用を失う、健康を損ねるなどを理由としていますが、そして感染する時は家にいても、施設や病院で暮らしていても感染しますが、それでも感染者の多くが破滅の門に関わっているように見えます。

 

緊急事態宣言が出されると、破滅の門の類の店は休業自粛を求められ、まだ営業している店も市民が外出を控えているので、経営に苦慮している様子が毎日テレビで報道されています。今はどんな業種も大変だと思いますが、破滅の門の類の業種は一層厳しいようです。仏教徒が出入りすべきでない店の営業は、仏教徒がすべきでない職業、誤った職業になります。日本にはブッダの教えがなく、お釈迦様は飲酒も遊興も禁じていないようなので、無理もありませんが。

 

自粛生活を見ると、仏教のヴィヴェカ(遠離)生活と同じだと感じます。私はタイの仏教を知り、四禅を体験してから、ほとんどすべての世俗的な人間関係に関心がなくなり、友人と会うことも電話で話すのも億劫になり、当然繁華街を歩く機会もなく、二十年くらい翻訳三昧の引き籠り生活をしています。だから今の自粛要請にほとんど不自由を感じません。

人との接触を断てば、周囲の人はいないも同然で、首都圏に住んでいても森の中にいるのと変わりません。本当は森とまで行かず、あまり目を楽しませない岩山かも知れませんが、ブッダが勧めているヴィヴェカには違いありません。

 

そして外で酒を飲まない、観劇や音楽鑑賞、舞踏鑑賞もしない、ショッピングも外食もパーティーも、観光旅行も、遊びと言う遊びをせず、友人とのお喋りもしない今の自粛生活は、外部の人と隔絶した「遠離」に近いと思います。会って飲んだり食べたりしなければ、人と連絡を取る機会も減るでしょうし、他人との連絡や会話が減れば、その分だけ自分の心を見る時間と機会が増えます。

自粛生活の不満の声ばかりが聞こえてきますが、このような状況に喜びを見つけてしまい、「ずっとこのようでもいいかも」と思っている人はいらっしゃらないでしょうか。

 

「長者さん。あなた方(在家)は、衣と食べ物と住まいと治療薬と八物で比丘を支援するだけで満足するべきではありません。長者さん。『そのようなら、このような場合みなさんは、それなら私たちは然るべき時にパヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)に入ってその中にいよう』と心に留めるべきです。長者さん。あなた方はこのように心に留めるべきです」と、アナータピンディカ長者に話されたブッダバーシタがあります。

庶民のサマーディ

今のテレビを観ると、男性アナウンサーや俳優、政治家などは背筋を立てて、あまり体や顔を揺らしませんが、女性アナウンサー、記者、リポーター、ゲストである専門家、そして一般庶民のほとんどは、話す時に顔を前に突き出し気味で、鹿威しのように頸を振り、上体まで揺れる人もいます。それは自分の話すことを少しでも協調したい気持ちの現われと思いますが、それ以上に、話す人に基礎的なサマーディがないことを表しています。

 

身体が揺れない人は、裁判官、医師、伝統工芸の匠、伝統芸能をする人、書道や茶道、柔道、剣道など、道という字がつくものに関わっている人、アナウンサー、大会社の社長や各種の首長、各界の大物など、集中力や落ち着き必要とする職業の人や、人に上に立つ人は体が揺れない人が多いので、ほとんどは基礎的なサマーディがあります。

 

日常生活の中の平均的なサマーディの深さは、その人の挙措を見れば分かります。日常的サマーディの深い人は、立っても座っても体が揺れず、眠ってもほとんど寝返りをしないので、掛布団はほとんど乱れません。

 

英語教育や西洋文化の普及と共に、身振り手振りをする人が増えています。身振り手振りをする人を見ていると、話の内容には関係なく、喋り始めると自動的に手が決まった動きをするように見えます。自分の発言をアピールしたい自己主張の思いが強く、手振りが癖になっている人は、手を動かさずに話すことはできないように見えます。

 

安倍総理は扇風機のように首を左右に回転させて話しますが、それはオリンピック誘致のスピーチのために外国のスピーチのプロから指南を受けた手法と聞きましたが、好印象かどうかは疑問です。習慣になっている身振り手振りも首振りスピーチも、話す人のサマーディを妨害するだけでなく、聞き手の集中力も妨害され、利益は何もないように見えます。

 

最近、子供から老人までリズムの早いダンスを好む人が多いのも、一般庶民のサマーディの質を落としている原因だと思います。ブッダは、「歌うことは泣くこと、踊ることは狂った症状」と言われていますが、狂人はサティもサマーディありません。

 

日常的に音楽を聴き、ゲームをし、早口で喋り、集団でお喋りを楽しみ、飲酒し、マンガを読み、歌い踊り、絶えず他人と連絡を取り合うなどしていれば心が静まる時間がなく、心が静まらなければ身体も揺れ、手も首も揺れ、常にどこかが揺れていないと何か足りないように感じます。ブッダの時代でも、ブッダは「一般庶民は全員狂った人」と言われていますが、現代人は狂人以上、最重度の狂人、プッタタート師の言葉を借りれば、魑魅魍魎の類かも知れません。

 

体の揺れ、心の揺れは、サマーディをすることで生じられなくなるとブッダが言っていますが、身体が揺れない人を見ると、生まれつきか、あるいはその職業に従事することがサマーディの訓練になっていると推測します。その上心を揺らすような環境と縁がない暮らしをしているか、避ける努力をしているのではないかと思います。サマーディによる幸福を知っている人は、静まっている水が入っているビンも波の上に置けば、外の揺れに吸収して同化してしまうと知っているからです。

 

瞑想をしない人にはサマーディは関係ないと思う人もいるかも知れませんが、十分なサマーディがなければ、仕事や勉強をする時、持っている能力を十分発揮できないので、そして正しい判断ができないので、どんな仕事をするにもサマーディ(心の落ち着き)は必要不可欠です。そしてサマーディ(心の落ち着き)を重視する人は高い能力のある人のように見えます。

私の好きなブッダの言葉

子供の頃も学生時代も、そして大人になってからも(ブッダの仏教に出合うまで)、いろんな場面で誰かに文句や暴言を言われた時、すぐに言い返せない自分に対して、幾度となく歯がゆい思いを繰り返して来ました。後になって、ああいえば良かった、こう言い返せば良かった、次の機会にはこう言ってやろうと考えて眠れない夜もあり、そして再び同じような場面に出合うと、結局言われる一方で、反撃できない自分に失望しました。

プッタタート比丘の「ブッダダンマ」という本の「会話記録2」に、次のようなブッダの言葉があります。

 

『粗暴なことを言うヤクザな人は、

当然それを自分の勝利と見なす。

智者は忍耐を自分の勝利と見なす。

怒った人に怒り返すことは、初めに怒った人より悪い。

怒った人に怒り返さない人は、非常に困難な戦いに勝った人と呼ばれる。

そして双方、つまり自分の側と敵側、双方の利益になる行動をする人でもある。

相手が怒ってしまったと知った人は誰でも、双方、つまり自分と敵側の利益を守るためにサティで静まってしまいなさい。

その当事者である賢くない族だけが、この人は弱虫と考える』。

 

この言葉に出合った時、そうだったのかと深く納得しました。この言葉は、いつ読んでも心がスッキリし、時には「がんばりなさい」と言われているように感じます。言い返せなくて悔しいと感じたことが、非常に困難な闘いに勝ったという名誉であると知ったからです。そして「情けない」「不甲斐ない」と感じていた性質は、過去世でこの教えを実践していた結果かも知れないので、悔しがるべきではなかったと思いました。

これを読んでくださっている方の中にも、文句を言われて言い返せないで悔しい思いをしている人がいらっしゃったら、ブッダのこの言葉を喜び、今まで情けないと思った自分自身を誇りに思ってください。

怒っている人に怒りで返せば、双方の怒りが縄のようになり、波のようになり、多くの人の怒りを巻き込めば、大きな怒りの際限ない流れになるかもしれません。プッタタート師は、「怒りは死」と言われているので、怒りの流れを止めることは、自分に迫る死の流れを止めることです。

洪水も火事も、最初の段階で流れを止めることが肝心ですが、最初に言い返さないことは、船員が小さな穴を見落とさずに塞いで船の浸水を防ぐように、重要で賢い行動だと思います。