「現世、来世」は世界ではない

プッタタート比丘のサイトを読んでいたら、「現世、来世」という言葉と、「後世」という言葉に、同じ「世」という文字を使っていて「おかしい」という考えが生じました。後世は後の世なので、意味として正しいですが、「現世、来世」は「この世界、未来の世界」という意味で、今生きている「この生」、次に生まれる「次の生」という意味ではありません。(ちなみに現世は「うつしよ」と読み、この世界のことです)。しかし今使われている「現世」の意味は、生きている間(今生)を意味し、「来世」は、次にどこかで生きる生を意味するので、文字と意味が一致しません。

 

元のパーリ語は「現在のジャーティ(現生)、次のジャーティ(来生)」と言い、「ジャーティ=生」という言葉を使っています。文字通り「現在の生、未来の生」です。パーリ語でもサンスクリット語でも、この「生」という言葉が、いつどこで「世」という文字になったのか知りませんが、何千年も前から使われているように見えます。

 

来生を次の世界と理解するので、ほとんどの人は、人が死んだ後に行く別の世界があり、死後はそこに生まれるとイメージします。前世は現世と違う世界で、来世も現世と違う世界で、宇宙には数えきれない世界があって、そこを巡っているように感じます。それは、事実でないので、聞いた人は信じる価値のない、バカらしい話と考えます。

前世も現世もこの地球で生き、来世も再びこの世界(地球)へ生まれ戻って来なければならず、ただ生物の種類と、生きる場所、生活する地球の一部分が同じとは限らないだけと知りません。

 

これは大した問題ではないように見えますが、世界の真実を知る上で、非常に大きな間違いがあります。

 

死んだ後「死後の世界」へ行くなら、極楽浄土や地獄の話になり、この世界で輪廻をする話ではありません。浄土思想の人たちが「現世、来世」という字を使い始めたのでしょうか。国語辞典には、「今生、来生」という言葉もあるので、初めは「生」という文字が使われていたということもあり得ます。

 

 日本語で「この世、あの世」と言えば、現世と来世を意味しますが、パーリ語、あるいはブッダの仏教では、この世はこの世界、有為である世界、無明の人の心の中に広がる世界のことを意味し、「あの世、あっちの世界、向こうの世界」と言えば、無為である涅槃を意味し、明の世界です。同じ「この世、あの世」でも、これほど意味するものが違います。

 

だから日本の仏教と違う教えを説明するには、ブッダが話された原語の意味を、できる限り正しく伝えなければなりません。似て非なる語句が至る所にある日本では、特に注意と配慮が必要不可欠と感じます。

 

テーラワーダの話を翻訳しながら、辞書にあるという理由だけで、ジャーティという言葉の訳として、よく考えもせず「世」という文字を使った自分自身のうかつさ、いい加減さに驚愕しました。そして「現世、来世」などの言葉が使われていると思われる講義の文字を、気づいただけ「世」から「生」に修正しました。

 

「ルーパ」を形でなく色と、「タターガタ」を如来と、「土」を「地」と、天国を極楽と、「お釈迦様」を「ブッダ」と変えたのは、小さな違いのようですが、ブッダが説かれた真実を理解することにおいて、決して小さな問題ではありません。言葉や文字が違えば、イメージするものが微妙に違い、真実を理解できないからです。

 

何年も前から、既存の仏教用語の間違いに気づいていながら、今もまだ、新しい仏教用語の間違いに気づいている自分自身に驚きました。しかし気づいたことを「遅い」と驚くより、気づいて修正する機会に巡り会えて良かったと喜ぶことにします。今は気づかない間違った訳語がまだあるなら、一つでも多く気づいて、正しくしたいと願っています。辞書にある言葉を尊重して使われる先生たちにはできない、荒業だからです。

 

新しい訳語を使うのは、好みの問題でなく、事実なので、多くの人々が新奇な訳語に慣れて、従来の訳語に対する我語取が薄れれば、あるいはパーリ語ブッダダンマを勉強する人が増えれば、遠くない将来、いずれ正しい訳語に替わると確信しています。

カンマより怖い随眠

随眠という言葉を聞いたことがあると思います。煩悩の一種で、普段は本性の中で眠っていて、時々起きて来て働くと言われています。プッタタート師は「怒りを倉庫に閉じ込める」という話の中で、次のように話しています。

 

『一度怒ると怒りの随眠、パティカーヌサヤという美しい名前の捨て難い物を作ります。一度怒ると、一度パティカーヌサヤが増え、しょっちゅう怒れば、怒る癖が増えるという意味です。その癖をアヌサヤ(随眠)と言い、漏れる用意ができます。アーサヴァ(漏)と言います。一度怒ればそれで終わりと理解しないでください。それは非常に愚かです。怒る度に怒りの随眠が増え、怒る癖はどんどん濃くなるので、益々怒りっぽくなります。

 だから怒らないように注意すれば、煩悩に餌をやらないで餓死させるのと同じなので、それが一番良いです。よく怒れば、あるいは毎日毎日、しょっちゅう理由もなく簡単に怒るのを放置していれば、抜き取れないほど厚くなり、抜き取るのが難しくなるので、「怒りは怒る習性を作り、自分に困難をもたらす」と、怒りを恐れます。

 この機会に話してしまうと、愛や何やらの話も同じで、一度すると、ラーガーヌサヤ(貪随眠)という随眠が増え、あるいは一度愚かになると、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)と呼ぶ愚かさの随眠が増えます。だからアヌサヤ(随眠)と呼ぶ物は自分を困難にする物で、自分は怒りたくなくても、それが電光のように怒ってしまい、自分は愛したくなくても、それが電光のように愛してしまいます。これは随眠と呼ぶ物のせいです』。

 

私は前々から、人は若い時には怒りっぽかった人でも、歳を取るにつれて丸くなる人と、歳を取る毎に酷くなる人がいるのを観察して、なぜこのように二種類に分かれるのか不思議に思っていました。上記の文章を読んで、「それは随眠を増やした人と、増やさない努力をした人の違いではないか」と思うに至りました。

 

怒りっぽい習性をそのままにして、日ごろ怒り散らしていれば、その度に随眠が増えて大きくなり、ある時、自分では怒りたくなくても、随眠が突然漏れて怒ってしまう、自分で支配できない巨大な物に成長してしまいます。そうなると、怒る理由は必要なくなり、何かちょっと切掛けがあれば、それだけで怒りの随眠が怒らせます。それが、年寄りの怒り性だと思います。

 

貪随眠も同じで、欲しい、欲しい、あるいは自分の財産や所有物を失いたくないと、ケチな考えをする度、行動をする度に貪随眠が増え、何十年もすると抜き取れないほど随眠が増え、年を取ったころにはコントロール不能の段階まで随眠が成長し、盗みたくなくても、一瞬で万引きをしてしまうのではないでしょうか。高齢者で、生活に不自由していないのに、少額の万引きをする老人がいると報道で聞きますが、それは増えすぎた随眠のせいではないかと思います。

 

生活に不自由していないのに万引きをすると、孤独や寂しさが原因と言う専門家がいますが、それなら、もっと良い他人との関り方はたくさんあり、敢えて犯罪を選ばないと思います。

 

有名な元女子マラソン選手で、病的な万引きで何度も警察に捕まり、何度止めようと決意しても、更生期間中に万引きをしてしまう人の生活を、テレビで見たことがあります。野菜の皮など、普通は捨てる部分も捨てずに利用するような地道な生活でした。「そのような人がなぜ」と、その時は解せませんでしたが、随眠の話を読んで、納得がいきました。

 

彼女は物を大切にする倹約家ですが、正しい見解の倹約でなく、誤った見解の倹約、つまり「ケチ」によるものなので、倹約をする度に「自分の財産を減らしたくない」「自分の所有物がもったいない」という貪随眠を増やし、コントロール不能の規模まで大きくなってしまったのではないかと思いました。

 

嘘をつくのが習性になっている人、詭弁を弄すのが習性になっている人は、繰り返す度に随眠が増え、随眠が一定の水準に達すと、本人は嘘を言いたくなくても、詭弁を言いたくなくても、自然に口から出てしまう状態になっているのではないかと見えるような人(政治家など)が時々います。

 

カンマは必ず結果があり、意図に比例して何百倍、何万倍にもなる所が恐ろしいです。しかし日常生活の行動のほとんどは、気づかずに繰り返している習性で行い、考えて決意してする行動も、熟慮してする行動も、結局は習性で考えて決意するので、ほとんどすべての行動、ほとんどすべてのカンマは随眠と関わっていると見えます。

 

そして繰り返すことで増やされた随眠は、ある日突然、コントロール不能になる点で、カンマより恐ろしいと感じます。人は「無くて七癖」と言います。自分の習性が恐ろしい随眠モンスターを育てないよう、サティで心を管理する習性をつけるよう、心したいと思います。

コロナの波

 

四月二十日過ぎから胃が重く感じられ、痰や溜飲や、他にも嫌な症状が出てきて、一向に良くなりません。家族も最近は食欲がないと言うので、つまり私一人でないので、縁は何かと現在の天体を見たら、四月二十三日から火星が蟹座に入っていました。胃を表す蟹座に火星が入ったので、胃が悪く感じられたのでしょう。

 

火星はケガや病気、事故やトラブルなどを表す星なので、個人のホロスコープで火星が蟹座に入ると、原因を作っている人は、病気や事故に遭う機会になります。だから今、コロナの波が高いのかも知れないと思い、今までの火星の動きを調べて見ました。(現在の蟹座だけ天体運行表を見て、他の星座は日数で計算したので、一日くらいの差はあるかもしれません)。

 

2020年

1/29~3/19   天秤座     

3/20~5/    8   蠍座       ◎ 第一波

5/9 ~6/27      射手座     

6/28~8/16   山羊座         ▽

8/17~10/03  水瓶座      △  第二波

10/04~11/22   魚座

11/23~1/11   牡羊座             ◎ 第三波

2021年

1/12~3/3       牡牛座     

3/4~4/22       双子座             第四波

4/23~6/11   蟹座        

 

火星の運行はこのようで、人間も、ある家へ行くと元気に行動でき、別の家に行くと委縮して活動できないなどの相性があるように、星にも星座との相性があり、火星は、牡羊座蠍座は自宅にいるように力を発揮し、天秤座や牡牛座にある時は欠点が出て、力を発揮できません。相性が良く、火星が力を発揮できる星座には◎を、委縮する星座には▽をつけて見ました。蟹座は緊張や混乱です。

 

すると火星が威力を増す◎の時期と、コロナの波が一致していると見えます。今年の三月初めから四月下旬までは◎でないのに第四波が生じたのは、双子座は、人体では肺の位置にあるので、火星が双子座に入って肺炎が増えた(重症が多くなった)からと見ることができます。

 

そして対策が適切でない国は、火星が弱まる時期になっても、ほとんど減っていないので、物理的な面が大きいように見えます。

 

今後を見ると、

6/12~8/31     獅子座

9/18~10/19    乙女座   

10/20~12/8    天秤座   

12/9~1/27     蠍座     ◎

2022年

1/28~3/18     射手座   

3/19~5/7      山羊座         ▽

5/8~6/26      水瓶座    △

 

このようになっています。

コロナは多くの物理的原因と、個人のカンマと、社会の対策、といろんな要因が絡んでいるので、一面だけで見ることはできません。占星学でも火星だけでなく、他の星の影響も見なければなりませんが、火星だけを見ると、六月以降は多少落ち着き、今年の暮れに、もう一度高い波があるかもしれないと見えます。

 

 

これは、「星がこのようだから、こうなります」という予言ではありません。予言と見て信じれば、中世の人のような暗さに陥ります。「人は普通では常見です」とプッタタート師が言われているように、人は何かが悪くなると「この先ずっと悪くなる」と考えて悲観し、ちょっと良くなると「今後は良くなるだけ」と楽観します。「この世界のすべての物は無常です」と言っても、すぐに忘れてしまいますが、星はこのように、常に運行していると知ると、ずっと悪くなるとか、ずっと良くなると思わないで済みます。

 

どんなに常見に陥りやすい人でも、昼と夜が繰り返していることは忘れないし、四季が繰り返していることも知っているので、星も常に回っていて、いろんな季節を作り出していると知ることには意味があります。

 

星は原因ではなく、結果をもたらす縁を見る計測器のようなものです。冬が来たから寒くなり氷が張るように、この星がここに来たら、そういう意味の結果が出るにふさわしい、そこへ行ったらまた別の結果が出るにふさわしいと、常に変化していること知るには、とても良い道具です。

恩返しと恩送り

先日テレビを見ていたら、「いろんな人から恩を受けて来たので、恩返しでなく、これからは若い人たちに恩送りをしたいと思っています」と話している人(一般人)がいました。これは若い日の自分と同じ考えで、苦々しく感じました。

 

私自身も若い頃、多くの人の恩を受けて今の自分があるので、恩を受けた人に「恩返しをしたい」気持ちはありました。しかし、まだ若かった私は生活に精いっぱいで、恩のある人たちはお金持ちで、遠い故郷にいる人ばかりなので、詰まらない物品を贈ったところで失笑を買うだけと考え、それなら自分より後から来る人たちを援助しようと考えました。

 

恩を受けた人に恩を返せば、二人の間で完結してしまうけれど、恩を受けた人が、バケツリレーのように次々に人を助ければ、支援は永遠に続くので、大きな支援の輪になり、恩返しより社会にとって良いと考えていました。そして誰かを支援する時は、恩ある人の恩を思いました。

 

しかしブッダの仏教を学んで、その考えは完璧に誤っていたと知りました。自然の法則では、受けた恩は借りなのです。

 

お金持ちからお金を借りて、そのお金持ちは返してほしくて貸したのでなく、与えると決めて与えたのでも、自然の真実では精神面の借りができ、返さなければ、踏み倒しになります。他人の恩を踏み倒しておいて、他の人に貸し、「あなたへの恩を、こちらへ回させていただきます」と最初の恩人を思うなど、盗人猛々しい厚顔無恥な人間です。

 

私は「受けた恩は借り」と知らなかったので、自分の頭で考えて、そのような間違った考えをしていました。現世で、助けてくれる温情のある人に多数出会ったのは、たぶん過去世でも、小さな人助けしていたのだと思います。しかし、恩ある人に恩返しをして来なかったので、現世ではあまり発展しませんでした。

 

今では、恩を知ることは、非常に大切なこと分かります。ブッダが「恩知らずは破滅する」と言われているからです。恩は一種の借金、借金以上の借金で、踏み倒せば、世俗的にも、タンマの面でも、発展は期待できないと見えるからです。

 

団塊世代の私が子供の頃は、親も先生方も「忠孝」の考え方に自信を失っていたので、「孝・恩・忠」を口にする人はなく、教えられたことも、考えたこともありませんでした。大人たちは、そういった話題を避けているようにも見えました。生まれた時代を考えれば仕方なかったとは言え、老人になってから知ったのは、非常に不幸なことと思います。それは今でも変わりありませんが。

 

ブッダの教えを学んだ今なら、自分より偉大な人、世の成功者である恩人に恩を返すことは、無理して大きな金額の品物を贈って返すのではなく、近くへ行った時は、その度に敬意を表す品物(手土産)を持って顔を出し、いつでも恩に感じていると、言動で表すべきだったと分かります。

 

私は「尊敬も恩も、日頃心で思っていれば通じる」と、勝手に思い込んでいました。しかしブッダは「尊敬する人には敬意を表しなさい」と言われています。ということは、思っていても通じないということでしょう。

 

だからアジアには表敬という礼儀があり、友達の家へ行ったら、着いた時と、辞去する時、両親や祖父母に挨拶しなければなりません。有名人などは今でも、地方へ行くと、知事や市長などを表敬訪問します。子や孫にそのような昔式の礼儀を教えることは、子や孫の努力を実らせる肥料や日光になります。勉強だけさせて、勉強だけできる子になっても、恩を知らず、恩の返し方を知らなければ、親や、その子が望むような幸福な人にはなれません。

 

恩送り、つまり他人を支援することは良いことですが、恩返しの代わりにはなりません。恩は借なので、返せる状態になったら先に借りを返し、それから他人の支援をするべきです。いくら他人に貸しても、貸主に返さなければ、借金は消えないからです。

 

そして、恩を受けた金銭的価値だけを返しても、例えば百万円支援してもらって、後で百万円返しても、そこには恩が残ります。恩の部分は、繰り返し尊敬と感謝を、体と言葉と心で表す以外に、返しようがありません。

海の歌

仏教では、自分が手本とすべき物を持つべきと言います。いつでも手本にする物があれば、何につけても迷わず、心の拠り所にすることができます。ダンマは最高の拠り所ですが、すべてを記憶し、すべての場面で思い出すのは難しいので、ダンマに沿っている(正しい見解の類の)自分の心にぴったりした言葉や歌は、記憶しやすく、思い出すのに都合が良いです。

 

最近、西条八十の「海の歌」という詩を見つけました。

 

大いなる 船くつがえす

かくれたる 力はあれど

あどけなし 磯のさざ波

白砂に 小蟹と遊ぶ

 

満ち潮の 満ちて誇らず

引き潮の わかれ嘆かず

塵あくた のせて濁らず

青き水脈(みお) つねに新し

 

おおらかに すべてを呑みて

おおらかに すべてを濯い

とこしえに かがやける海

ああわれら生きん 海の心に

大海(わだつみ)の 広き心に

https://youtu.be/Y64feccSOZo

 

昭和三十年に作られた、古関裕而作曲、伊藤久男歌唱の「三越ホームソング」の歌詞です。

 

「大いなる船くつがえす、かくれたる力はあれど」は無力無能でなく、偉大な力はあってもひけらかさず、「小蟹と遊ぶ」は繊細な優しさがあり、「満ち潮の満ちて誇らず」は慢がなく、「わかれ嘆かず」は執着や痴がなく、「塵芥のせて濁らず、青き水脈、つねに新し」は、世界の汚れに触れても汚れない例えに、ブッダが好く使われている蓮華と同じです。「おおらかにすべてを呑みて」はタターター(真如)で、「すべてを濯い」は、貪りや憂いなど、常に心の汚れを濯ぐサティ、四念処で、「とこしえに輝ける海」は涅槃です。

 

歌われている海は阿羅漢の心であり、武士の精神、日本人の理想だと思います。今日は偶々伊藤久男の命日でした。人の一生は短く、残された仕事は永遠なので、何かにつけて昔の人の作品に触れることは、良い事と思い、世俗の話ですが、この歌について書いて見ました。

 

詩はこのように美しく、意味は深く、曲も壮麗で気高く、このような歌が国歌なら、すべての人に好まれ、誰もが気持ち良く歌えるような気がします。

 

 

もう一つ、昔の童謡の「村の鍛冶屋」(作者不明)は、確か小学校低学年の音楽の教科書にあり、子供の頃に歌った歌で、思い出す度に、懶惰と闘う日常生活の手本としたいと思います。こういう言葉は在家の心の宝です。

 

しばしも休まず槌打つ響き

飛び散る火花や走る湯玉

フイゴの風さえ息をもつかず

仕事に精出す村の鍛冶屋

 

主は名高きいっこく者で

早起き早寝の病知らず

鉄より堅しと誇れる腕に

勝りて堅きは彼が心

 

刀は打たねど大鎌小鎌

馬鍬に作鍬、鋤よ鉈よ

平和の打ち物休まず打ちて

日日に戦う懶惰の敵と

 

稼ぐに追いつく貧乏なくて

名物鍛冶屋は日ごとに繁盛

あたりに類なき仕事のほまれ

槌打つ響きに増して高し

https://youtu.be/kphnvoE62Ms

 

平等に暮らすのは苦

 ブッダは「四つの階級も同じで、カッティヤ(武士)もバラモン(司祭)もヴェッサ(商人)も、スドゥッタラ(労働者)も、出家して私が公開したタンマヴィナヤ(この場合は教団というような意味)に入れば、当然全員が自分の古い名前と家名を捨て、当然新たにサキヤプティヤ(釈迦族の子)のサマナと呼ばれます」と言われているので、「仏教は平等を説いている」と主張する人がいます。

 

しかしプッタタート師によると、ブッダは「平等に暮らすのは苦」と言われているそうです。ブッダの教団は、出家すれば、どの階級の人も平等にブッダの弟子になりますが、教団内には出家年数による序列があり、一日でも早く出家した人は、「先輩」として敬わなければなりません。同じ先輩でも、年数の多い人ほど敬わなければならない世界です。仏教では上下がないのではなく、上下に分ける基準が、当時の世間のように、生まれや身分でないだけです。

 

寺という言葉の語源である「テーラ(サンガの規定による長老)」は、新参比丘にとって尊敬しなければならない人ですが、それは出家して十年を経過した人で、年数を規準にしています。そして後輩が先輩に対して守らなければならない言葉遣いなども、ブッダは細かく規定しています。また社会や家庭内でも、年長者を尊重するよう教え、「親も子もない、先生も生徒もない、サマナもバラモンもいない、年寄も若者もない」という見解を、誤った見解と明言しています。

つまりすべての人の日常生活で、すべての人が平等に暮らすことなど、説かれていないということです。

 

だから大乗も含めた仏教文化の国では、長と老を敬う慣習があり、大勢の人が集まる場所では、相応しい席順を守らなければなりません。つまり上の者と下の者を区別して扱う文化と言うこともできます。それは社会的には、上下があることは秩序を生じさせ、それによって安定や平和が生じ、穏やかな幸福が維持でき、進歩発展が期待できます。個人的には、長老を尊重することは善のカンマで、行動した人の心を素直にし、苦を生じさせないからだと思います。

 

2010年8月5日のペルー コピアポ鉱山落盤事故の経過をWikipediaで読むと、地下に閉じ込められた三十三人の工夫が、10月13日に全員救出が完了するまでの二カ月を超える月日を、地下で安全に過ごすことができたのは、自然に、必要な役割分担ができ、全員がそれらの指示に従ったからと分かります。相応しい資質と責任がある現場監督がリーダーになり、適任者を見出して医療係、宗教係、精神科ケア係、外部との通信係などを決め、他の人はリーダーや係を信頼することで一致団結して、最初は食べ物も飲み水もない苦境を、大事なく乗り越えました。平等を主張し、全員平等に行動して右往左往していれば、全員が餓死、あるいは仲間内の争いで滅びたかもしれません。

 

ブッダはいろんな場面で「団結」を教え、(告げ口など)団結を破る行為を禁じ、非難しています。団結するには核である人、リーダーが不可欠です。だから団体には必ずリーダーや監督、オーケストラには指揮者、劇団には監督、建設現場にも監督、調理場には料理長など、指揮監督する人がいます。全員が同じ技量があったとしても、統率する人は必要で、技量に違いがあればなおのこと、上下の序列は必要になります。

 

何としても結果を出さなければならない仕事の現場では、元々平等に持ち合わせていない技量や資質の人が平等を主張したら、混乱と停滞だけで、一歩も進めません。端役を嫌って、誰もが主役をしたいと主張すれば、配役を決めることもできません。

 

最近、河野ワクチン担当大臣が「平等性」と言ったのが気になりました。全国にワクチンを割り振る時、感染者や感染率が高い大都市がある都道府県も、毎日の感染者が一桁、あるいは無い県も人口割で配るのは、大火事が拡大している県と、まだ火事がない県とを同じに、平等に消防車を配置するのと同じで、中学生にでもできる分配だと思います。

 

もし治療薬の不足が生じれば、「治療薬の平等性」と言って、重傷患者のいない県と、感染爆発している都府県と同じに配分するかもしれません。

 

平等は民主主義と同じで、自然の在り様を見たことがなく、自然の在り様を知らない人が、西洋人から聞いて「素晴らしい」と見て夢見る妄想です。平等に働いて平等の所得を得ることを夢見た共産主義は、半世紀もしないで崩壊しました。たとえ同じように働いても、人はみなカンマが(働く意図の種類と強さが)違うので、同じ結果を受け取ることはあり得ず、受け取る結果に差が生じなければならないので、時間の経過によって歪が大きくなり、経済主義としての共産主義は、自然の法則で崩壊しました。

 

通常の患者が待っている内科医の待合室に、呼吸困難を起こした人が運びこまれれば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。通常診療の患者が待っている産科医の待合室に、切迫流産の人が駆け込めば、順番の平等性より、病状の緊急性が優先されます。そのようなことはどこにでも普通にあり、誰も文句を言う人はいません。順番の平等性より、緊急性、必要性の優先を認めるからでしょう。

 

冒頭のブッダの言葉にあるように、人を平等に扱うことは世間にあまりない良いことですが、良い結果が生じる場合だけを周到に考えて使わないと、愚かになり、滑稽になります。平等は自然にない概念なので、何にでも使う物ではないように見えます。

ブッダのホロスコープ

 

占星学で個人を占う時は、ホロスコープ、あるいは出生図と呼ばれる図を使います。十二房あるみかんを輪切りにした面のような図で、十二の室に十二の星座が入ります。そして占う人が生まれた日の生まれた時刻に天空にあった惑星を、ミカンの輪切りのような図に書き込んで、それぞれの惑星が位置する星座と室(ハウス)を見、他の惑星と作り出す角度を見て、様々な情報を読みます。

 

出生図を見れば、その人はどのような性質で、どのような生き方をする傾向があるか推測できます。しかし出生時の天体が表すものは、その時生まれた人の過去の情報を示すものであり、将来を予言する物ではありません。過去世ではこのような習性があったと分かれば、その習性が現世も残っている可能性が高いので、そのような習性があれば、結果である人生はどのようか、原因(習性)と結果(人生の傾向)を教えています。

 

普通は生まれた人の生年月日と時刻、出生地などを元に出生図を作成しますが、出生年月日が明らかでない人の場合、出生図を先に作って、それから出生日時を特定することも理論的には可能なはずです。

 

ブッダヴァチャナ・シリーズの本を読んでブッダの色んな面を知る度に、占い師の性で、「これは何星が何座にあるのではないか」「これは何星が何室にあるのではないか」「これは何星と何星が何十度離れているではないか」と推測してしまうことが度々あります。

 

ブッダは、太陰暦六月十五日生まれであることは分かっていますが、誕生年は何年と確定されてなく、幾つかの説があります。そこで、ブッダの出生図を推測で作成すれば、生年が特定できる可能性があります。

 

十二房あるミカンの輪切りのような図を紙に描き、時計なら9の数字がある場所を出生点とし、時計の8までの間を1室、時計の7までの間を2室、時計の6までの間を3室と、左回りに室番号をふり、十二の室を作ります。そしていろんな経で推測できる情報から、どこに何の星があるか推測してみます。

 

 

ブッダの誕生日は陰暦6月15日なので、太陽暦では5月か6月で、牡牛座か双子座になります。太陽が牡牛座にあると、物質欲が強く頑固で、太陽が双子座にあると、知識欲が盛んです。ブッダは子供の頃から物を思う性質で、真実を知りたい欲があったと見えるので、誕生日の太陽は双子座のように推測します。

 

・満月の日の生まれなので、月は太陽と反対側の蠍座か射手座にあります。

 

ブッダは獅子のような姿をしていたとあるので、1室(アセンダント)は獅子座と推測できます。アセンダント獅子座の人は、威厳のある立派な風貌をしています。

 

・徹底的な訓練と特殊な経験で才能を開花させ、不可思議な人格の変容を遂げているので、冥王星が1室(獅子座)にあると推測できます。1室が獅子座だと、双子座は時計の12の所にある10室で、太陽は十室にあると推測できます。

 

・幼い時から、三つの季節を快適に過ごせるよう作られた三つの城を移動していた(つまり引っ越しが多い)こと、生涯が旅だったこと、晩年故郷へ戻ろうとしたことなどから、4室に月が入ると推測できます。

 

・満月の日の生まれなので、太陽と月は180度前後離れているので、月が4室にあると推測できるので、太陽は10室にあると思われます。

 

・大悟する前夜に「この体の血肉が干からびて骨と皮だけになっても、真実を悟るまでここから立ち上がらない」と言われた主旨の誓願を読むと、1室(獅子座)にある火星と冥王星は八度以内にあると推測できます。火星と冥王星が接近していると、目的を遂げるか倒れるまで働く人だからです。

 

・義母であるパチャバディー王女が出家する時のやり取りを読むと、女性の扱いが苦手のように見られますが、火星が獅子座にあると、そういう傾向があります。

 

・旅は楽しみでなく、仕事のためだったので、土星が9室にあると推測します。この人は深刻な研究課題に取り組む人です。

 

木星が9室にあれば聖職による学問の完成、哲学的な考えと慈悲心が人格的力を強化するとあり、10室にあれば、何をしても社会的に尊敬される人になり、教育や専門職、実業家、公職に向いているので、どちらもあり得ますが、9室の方が可能性は高いと思います。

 

・王家や将軍家などに生まれた人、嫁ぐ人はほとんどすべて4室に天王星がある(家族の生活がバラバラ)ので、ブッダもそうであろうと推測します。4室にある天王星と10室にある太陽が180度離れていれば、父と考え方が違い、父子関係の問題があり、結婚後は、社会的に成功しても、家庭の不満を招きます。

 

・水星と金星はいつでも太陽の近くにいるので、8室から12室辺りにあるはずですが、あまり重要でないので、良く分かりません。天王星海王星は、推測するにも、強い根拠がないので、正直良く分かりません。

 

以上の理由で、

1室の獅子座は、冥王星と火星があり、

4室には月があり、(天王星もあるかも)

9室から11室の辺りには土星木星、金星、水星があり、

10室、双子座に太陽があると思われます。

 

特に注目すべきは、1室、獅子座にある冥王星です。冥王星の周期は248年なので、千年に四周、ブッダの死後2500年の間に10周くらいしか廻っていません。だから、仏歴の紀元と言われているBC543年に近い頃の、冥王星が獅子座にあった年を探します。冥王星が一つの星座に滞在するのは約20年間で、その間に、火星が獅子座にあった年を探すと、火星は周期が687日で、二年弱に一回、50日ほどあり、冥王星が獅子座にある約20年の間に、十回くらいあります。これで500日くらいに絞られます。

 

冥王星が獅子座にある20数年の間に、土星は一巡しないので、土星牡羊座から牡牛座、双子座辺りにある時を探します。それは二年余りしかないので、その中で、上記の条件を満たす年がブッダの生まれた年と分かります。

そしてその中に太陽が牡牛座か双子座で、月と180度離れている日を探せば、正確なブッダの出生図を作ることができます。

 

星座の位置情報が分かるサイトもありますが、無料で使えるのはせいぜい百年間くらいで、紀元前のことなど知る由もありません。最後に冥王星が獅子座にあったのは1937年(10月)から1958年頃までで、単純に1937から248×10を引くと、十回前に冥王星が獅子座にあったのは紀元前543年から20年間くらいになります。

 

タイで使っている仏歴では、紀元がBC543年ですが、それはブッダが涅槃した年を紀元にしていると言われています。ブッダの死を紀元にしていれば、ブッダが生まれたのは、それより80年前、BC623年になり、冥王星は三分の一周ほどずれてしまいます。

このような単純な計算は、使い物にならないかもしれませんが、BC543年の5月か6月頃、あるいはそれに近い年で、火星が獅子座に入るかどうか。この複雑な計算をしてくださる人が現れれば、ブッダの生年を特定できるように思います。