読書をする習慣

私たちは子供の頃から読書は大切なことだと言われ、いつでも「本を読む習慣をつけなさい」と言われて育ちました。読書することが習慣になった読書好きな人は、月に何十冊、年間何百冊という本を読みます。そして本人も周辺の人も、それは良い習慣であり、高尚な趣味だと思い込んでいます。

聖と俗は何もかも正反対なので、読書(楽しみや教養のために本を読むこと)に関してもタンマ側の見方は反対です。

『読書を習慣にすること』には何の利益もありません。(必要な時に必要な知識を得るために読むことには、当然利益がある)。利益があるとすれば、本を読んでいる時間は、(飲酒やパチンコ等)それ以上悪い行動をしないで済むことくらいです。しかし読書の習慣があると、生活の大きな時間を費やすので、『それ以上に善いこと』をする時間がまったくありません。

『それ以上に善いこと』とは、『熟慮』、真実を見るために熟慮すること、つまり儀式でない(自然の)ヴィパッサナーで、普通に熟慮、深慮することです。だからタンマから見ると、「読書の習慣」は、一日中テレビをつけたままにするのと同じで、大事な『熟慮する時間』を奪う非常に悪しき習慣です。

大昔から明治までの教育では、『読書百遍、意、自ずから通ず』と言って、本当に価値のある本、つまりテキストを何度も繰り返し読み暗唱するよう教えられました。テキストにした本は、四書その他の中国の思想書や仏教の経典などでした。

つまり読んで考え、暗唱して考え、行動して考え、そしてもう一度読み、また考え、という繰り返しの中で、一つのテキストの理解と実践と生き方を、一つに溶け合わせます。師である人が、「この弟子はこのテキストを全部正しく理解できた」と見た時、次の本を読むことが許されました。

だから学問をした人は、テキストにした書物の内容を、すべて正しく理解し、心がそのレベルに達した人でした。しかし現代の『読む』という行為は、ほとんどの場合一度だけで、読後に繰り返し深く考える時間も無く、次々と新しい本を手に取ります。

だから断片的な知識や感想以外に、何も心に残りません。『感動や感想』は『想蘊』であり、変化し続ける車窓の景色と同じくらい無益です。

タンマの道を歩く人にとって最も大事なことは、自然の真実について考える『熟慮』あるいは『(自然の)ヴィッパッサナー』です。本を読むなら、真実の見方を教えるブッダの言葉や、ブッダの言葉を正しく理解する人の解説書でなければなりません。それ以外の本は、心を整理して静めるものではなく、ますます混乱させる類のものばかりだからです。

私は、子供の頃から読書好きな子ではありませんでした。しかし、読むのが嫌いという訳ではありません。読みたい本なら読みましたが、学校の図書館には、それほど読みたい本はありませんでした。だから自分の子どもにも「読書をしなさい」と言った記憶はありません。

しかし日常生活で、人生や生きることについて、あるいは人間や世界に関して考える機会があると、考えるきっかけからだんだんに深い考えまで掘り下げていく『考え方』、あるいは『考える習慣』を実践で教えました。

小説を書くようになってから、勉強のために本を読むようになり、幅広の書棚四棹に、前後二列に並べても入りきれないくらいの本を読みました。好きな作家たちの全集は、全巻通しで五、六回ずつは読みました。しかし当時は『凄い。素晴らしい』と感じたどんな部分も、ブッダの説く自然の法則を知った後では、何の価値も魅力も感じられません。

『読書をする習慣』のある人がタンマに興味を持つと、一般書や専門書を読むのと同じように、次から次へと仏教書を読み漁ります。読めば知識はどんどん増え、能力に応じて記憶できます。しかし記憶は心の表面に積もるだけで、深く根を下ろさしません。だからどんなに溜めこんだ知識も、死んで体が滅びると同時に無になります。

しかし理解して納得し、熟慮して『見える』ようになった知識は、智慧になってその人の行動を支配するので、その人の習性になり性格になって滅びることがなく、後々その上に積み上げていくことができます。

経典で語られている子どもの時に阿羅漢になった人や、ブッダの話を一、二度聞いて阿羅漢になった人たちは、ブッダ以前になかった『自我を捨てる』知識が無かっただけで、不還向、あるいは一来向レベルの知識は、過去世で完璧に熟慮済みだったに違いありません。

ブッダの側近の立場にいたアナンダが、ブッダの存命中に阿羅漢になれなかったのは、心からの忠誠で奉仕していたので、誰よりも多くブッダの説法を聞き、記憶していたにも関わらず、じっくり熟慮する時間が持てなかったからではないでしょうか。だからブッダが亡くなったすぐ後(二カ月以内と分かる)に、阿羅漢になっています。

『真実が見えるまで深く考える習慣』が無い人は、どんなに素晴らしい本を読んでも、ブッダ在世時のインドに生まれて、直接ブッダから説法を聞いても、受蘊である『感想』と想蘊である『知識』以上に得られるものは何もありません。

だから旅である(目的地に向かう)人生を歩む人、道であるタンマを学ぶ人は、一時も早く『読書をする習慣』を止め、『熟慮。自然のヴィパッサナー』の仕方と、熟慮する習慣を身につけるべきです。

学問の『学』とは、読んだり聞いたりして、外部から知識を取り入れることであり、『問』とは、理解できるまで師に問い、自分自身に問うこと、つまり、深く熟慮することではないでしょうか。

学ぶだけでは、染料だけで定着剤を使わない染物のように、パソコン画面に入力するだけで、保存しない文書のように、心に何も残らないので、生涯続けても徒労でしかありません。本を読むだけでは『学ぶ』と言うことさえでき来ません。

『聖』である最終目的に向かうには、『俗』の生活習慣を一つずつ改めていくことが必要不可欠です。(そしてすべてが俗と正反対になった時、心が聖なる領域に到達すします)。『俗』の暮らしにどっぷり浸かったまま、向こう側の『聖』の話を聞いたり読んだりしても、理解できるはずがありません。