せめて預流果

人は一生のうちで、宗教など精神的なことに興味をもつ期間が何度かあります。占星学で見ると、大抵は一年から二年半くらいで終わります。だから興味をもって何かを手繰り寄せ始める頃には、その時期が終わってしまうので、何も結果はありません。

最も長い時で数年から十年足らずですが、これは誰にでもあるわけではありません。この長期の宗教に興味を持つ時機が、生涯に一度もめぐって来ない人の方が多いです。 だから幸運にも、長期間宗教に関心がある時機に巡り合った人は、そのチャンスを、最高に有効に使わなければもったいないです。仏教ではよく、「人間に生まれ、仏教に出合った機会を無駄にしてはいけない」と言いますが、本当に稀で貴重な機会だからです。

仏教に関心をもったら、何も考えずに手近なものに飛び付かないで、いろんな物を調べ、比較し、熟慮して、できるかぎり「本物」、「本当に滅苦ができるもの」を求め、本当のブッダの教えに出合ったら、それを熟慮し、実生活で実践して、せめてその期間中に預流になる努力をするべきです。

預流者、ソーダーバンとは、涅槃に至る流れにたどり着いた人という意味です。一度預流になれば、「最終的には、かならず涅槃へたどり着く」とブッダが言っているので、宗教に興味のある時期は過ぎてしまっても、気持ちが弛み、再びサティやサマーティが衰えても、何があっても、いつかは必ず涅槃へ到達できるということです。

川の流れに落ちた木の葉や小石は、何かに引っかかって停滞することはあっても、川上に向かって遡上することは決してなく、再び大雨の後などの流れに乗って下り、いつかは必ず海へ出るのと同じです。

何かの確約が取れたことを、よく「パスポートを手に入れた」という言い方をしますが、実際にはパスポートを手に入れただけでは、かならず外国に行ける訳ではありません。チケットも買わなければならないし、座席も取らなければならないし、本人が空港へ行って、飛行機に乗り込まなければなりません。自分が搭乗している飛行機が離陸しても、本当に到着するまでは、「必ず行ける」と保障できる人は誰もいません。

しかし預流になれば、確実に涅槃が約束されます。かならず涅槃へ至る流れに乗った人だと、ブッダが言っているのですから。

だから仏教に興味を持ったら、とりあえず、何としても預流になっておくべきだと、私は言います。瞑想して初禅を目指す前に、預流になる努力をするべきだと思います。

瞑想で禅定に達しても涅槃は約束されません。 しかし預流になれば、預流は聖人の第一段階なので、煩悩が減った分だけサマーティが深くなり、瞑想でも何の修行でも、いまのまま、俗人凡人のままするよりも、はるかに効果が上がるからです。

瞑想が上達すれば、自然に預流になり、一来になり、阿那含になり、最後には阿羅漢になれると考えている人がいるかもしれませんが、預流果を得るには、預流向と呼ばれる実践をしなければ到達できません。だからサマタ、止業処、あるいはアーナーパーナサティの「体を見る」第一部のレベルでは、預流にはなれません。

世俗を脱す(聖人になる)タンマを見るのは、アーナーパーナサティなら第四部13段階以上ですが、ほとんどの人は第一部の3段階から4段階に進むことができないと、プッタタート比丘は言っています。

つまり瞑想では、ほとんどすべての人が、16段階中の3段階目でつまずいてしまい、4段階目の、体を制御できるレベルに達しないらしいです。だから、ほとんどの人は、体を見る段階である第一部を修了することができません。瞑想で涅槃を目指すことは、非常に成功確率の低い方法だと言うことができます。

それよりも、何としても預流になるまでタンマを熟慮する(自然のヴィパッサナー)方が、成功する確率が非常に高い上に、成功すれば将来の涅槃が約束されます。

預流果を得るための預流向とは、「有身見」と、「疑」と、「戒禁取」を断つことです。

有身見とは、体を自分と考えること、疑とは、滅苦の道に関する疑念、つまり、ブッダは本当に解脱したのかとか、ブッダの教えで本当に苦を無くせるのか、という疑いです。最後の戒禁取とは、霊験あらたかなもの、神聖なもの、有り難い存在に対する信仰は、誤解と気づいて捨てることです。持戒や瞑想に、実際にある以上の効果があると信じることも、戒禁取になります。

霊験がある、神聖だと信じてきたものの真実を見て、この体は自分ではないと見え、そして、ブッダの教えを実践すれば苦を絶滅できると確信できれば、預流果をに到達します。


 預流向はそれほど難しくありません。「青少年のためのブッダの伝記」にも幾つか例がありますが、ブッダがあちこちで説法をしている時、聞いていて預流になった人は数知れずいます。

当時ブッダの話を聞いて阿羅漢になった人たちの多くは、両家の子息(つまり徳が高い人たち)だったらしいですが、預流果は貧しい機屋の娘も、ごく普通の身分の人も預流果を得ています。

だからタンマの講義を何度も読み、読んだ時間の何十倍も、何百倍もそれについて考えれば、そのうち自然に「本当にそうだ。体は自分ではない。ブッダは本当に解脱した。神聖なものへの信仰は誤解だ」と本当に分かり、つくづく感じます。

本当に分かれば、たとえば誰かに「体は自分だと答えなければ命はない」と言われても、心の深奥では、体は自分ではないという確信は変わりません。

考えると言っても、理論で考えるのではありません。学校の試験勉強のように、語句の繋がりや、意味を要約するのでもありません。ブッダが言われている教えが本当かどうか、自分の経験や、見聞きしたことや、自然のあり方と照らし合わせて、検証することです。

自分の考えを通して何を考察しても、俗人、凡人の考えから脱しないので、かならずブッダの教えを学んで知り、それに関わりのある自分で体験した事実と照合して、本当かどうかを検証する方法しかありません。

ブッダの言われていることが本当だと分かれば、真実だと分かれば、有身見も、疑も、戒禁取も霧散してしまいます。

ブッダの教えを本気になって、自分が体験した真実で検証すれば、ブッダの教えが間違っていると証明できる人は誰もいない、とブッダ自身が言われているように、誰もが納得します。

ブッダが言われていることに心から納得し、ブッダの教えに反した行動ができなくなれば、少なくとも預流であり、涅槃が確約された人になります。「お釈迦様」ではなく、必ず滅苦ができる「ブッダ」の教えだけを、事実と照合する方法で熟慮すれば、預流果、ソーダーバンは決して難しくありません。