英語を話すことの害

昔外国語と言えば、西洋ならラテン語、東アジアの国々では中国語、南アジアではパーリ語でした。つまり、外国語は宗教を学ぶためのものでした。交易をする商人も当然外国語を使ったでしょうが、商人は学ぶというより倣い憶えるだけで、学問的な勉強ではありませんでした。

近代になって工業や医学が進歩すると、世界の国々は、ドイツ語や英語を学ぶようになり、語学を学ぶ目的が、精神的なものから物質的なものに変わりました。そして戦後は、アメリカの国力の増大に比例して、英米語を学ぶ人が増え、中東や東アフリカを除く世界のほとんどの国の「第一外国語」になりました。

英米語を学ぶことの利益は、アメリカ・カナダ・オーストラリア以外にも、英国連邦の人や、その他英米語を学んだ多くの人と直接会話ができるので、取引に便利で有利なことです。しかし英語を学ぶこと、英語を話すことの害について考える人は誰一人いません。

私は世界の言語を幾つも知りませんが、英語は世界一「自我の強い言語」のように見えます。文章には主語が不可欠であり、「私」は何より特別で、文中のどこにあっても大文字を使います。主語以外にも、「私の」「私に」という言葉を、執拗に使用します。これほど「私」にこだわり、「私」を主張する言語が他にあるでしょうか。


日本語で「昨日会社に行った」と言えば、特に断らない限り主語は自分に決まっているので、わざわざ「私は」とは言いません。特に断らなければ、普通行くのは自分の会社に決まっているので、「私の会社」とは言いません。

言葉で「私」「私の」「私に」と言うとき、心が「私」があると感じるので、一日にこの言葉を使う回数だけ、自我が意識されます。話したり書いたりする時以外にも、考えるにも言葉や文章を使って考えるので、一日で何百回も「私」という感覚を心に叩きこんでいます。まるで「自我」を心に植え付けているようなものです。そのうちに「私」という感覚が強くなって心と体を支配し、本来の心(自然のままの心)を覆い隠します。

こういう言語を日常的に使っていると、非常に自我が強くなるので、トラブルに遭遇したとき、「自分から最初に詫びてはいけない」と言われる文化になります。初めに詫びないで、自分で決定的な誤りを認めらたら、その時詫びればいいと言います。日本やアジアでこのようにしたら、非常に常識のない人と思われ、第一印象で損をし、話し合いは拗れるばかりです。話し合いと言うより、闘争に近い形で進行し、決着するでしょう。

東洋の多くの国では、先ず「申し訳ない」と詫びて、それから言い分があれば後で言いいます。初めに詫びる方が、礼儀正しい話の分かる人だという印象になり、その後の話し合いが上手く行きます。闘争ではなく、理解し合う方向で解決します。

東洋人も英米語を学べば自己主張することを知り、相手より有利になる技法を憶えるし、他人の前で脚を組むのも平気になります。反対に日本語を学んだ西洋人は、日本語を使う時は「よろしくお願いします」、「済みません」などとと言う習慣も学びます。

これらをただ「文化の違い」と言ってしまえばそれまでですが、その「文化の違い」は、道徳のレベルの違い、心のレベルの違いです。どちらの文化が高いか、どちらの文化が礼儀正しく上品(つまりタンマがある)かは、社会の安定、犯罪や病気や事故の質と規模と深刻さなどを比較して見れば、明らかです。


言葉はただ意志を疎通させる道具だけではありません。言葉と文化は切り離せない、つまり文化を作る一人一の心や意識を支配します。例えば文化的に日本人と呼べるのは、日本文化の中で、日本語を使って生活していれば、血筋は何でも日本人とみなすことができ、反対に、外国文化の中で外国語を使って生活していれば、日本人らしさは、減少していきます。だから外国語を使うことは、その言葉を使う人たちの思考の仕方や、その言葉が持っている文化に染まることです。

精神が陰で、物質は陽である陰陽の原理で世界を陰陽に分けると、東洋は陰、西洋を陽と見ることができます。さらに陰中に陽あり、陽中に陰ありという原則で見ると、陰中の陽は中国であり、陽中の陰はイタリアではないでしょうか。中国はアジアの国でありながら、不老長寿思想など、物質文化の国です。

中国は、一般には英国やスペインのような帝国主義だった国と見なされていませんが、時代によっていずれかの民族が、周辺の民族を支配してできた、帝国主義の結果の多民族国家ではないでしょうか。中国語も英語と同じで、主語の「私」がなければ成立しないし、他人に対して、先に自分の非を認めてはいけないと言われ、文化全体に「中華思想」と呼ばれる傲慢、強烈な自我があります。

現在世界で学ばれている言語は、英米語が最も多く、その次が中国語です。すべての外国語を学ぶ人の目的が「個人の物質的利益」である上に、更に物質的欲望を強くする言語を学ぶから、世界の物質主義はますます著しくなります。

仏教のタンマを学んで、心の苦を絶滅させたいと望む人、あるいは穏やかで安定した生涯を送りたいと望む人は、使う度に自我を強くする言語を使うのは必要最低限にし、英語や中国語使わずに済む生活環境にすることをお勧めします。

仏教は他の信仰を許容する?

ブッダは仏教以外の信仰を禁じていないから、従来のいろんな信仰をそのまま維持しても良い」と言う人が時々います。そう言うのを聞く時、既に仏教に関心のある人にそう教えるのは、果たして正しいのかと疑問に思います。

なぜなら私は、「従来の信仰を捨てる必要はない」というのは、古い信仰への執着は、仏教の知識が増えるとともに減少し、最後には無くなるので、まだ仏教を知らない人が仏教の勉強を始め易いように、無理に執着を断つ苦痛を強いずに仏教へいざなうブッダの方便であり、既に仏教に関心のある人が、いつまでも他の信仰を続けて良いという意味ではないと理解するからです。

分かりやすく例えれば、幼稚園や保育園へ一人で行けない子供に、「(初めのうちは)お母さんも教室にいていいですよ」などと言うのと同じで、恐怖心が消えたら、それからは一人で行かなければなりません。一カ月たっても二カ月たっても母親と一緒でなければ幼稚園で過ごせないようなら、その子供はまだ幼稚園の楽しさをまだ知ってないのかもしれません。

他の信仰があれば、その分だけブッダダンマの理解を妨げます。
つまり心に「疑」があります。ブッダダンマだけが完璧な滅苦を可能にするという確信、あるいは信仰があれば、従来の信仰(善を目指す自分がいる宗教)と仏教(自分と感じているものはないとする宗教)の違いが明らかに見えるので、他の神様や神々に祈りや祈願をする気持ちが残っているはずはありません。

他の信仰が残っている間は、「疑」が消えていない証拠であり、他の信仰に従った行動をすれば、まだ「戒禁取」があるので、仏教の本来の目的である滅苦(涅槃)へ通じる流れ(夜流果)には到達できません。

だから、いつまでも他の信仰をしていてもいいと教えることは、質問した人の「疑」や「戒禁取」を断つ機会を封じる行為と同じです。「他の信仰をして良いですか」と質問する人に、「してはいけません」と言うのもブッダの言葉と一致しません。

そのように質問する人は、ブッダの仏教が他の信仰と同じ程度の価値にしか見えないから、そういう質問します。

たとば本物の小判を手にした人は、それまで持っていた偽物の小判を、自然に手放す気持ちになります。偽物を一緒に持って居たい人は、まだ本物の価値が分かっていないのです。つまりブッダの仏教についての知識がないか、あるいは正しい知識が足りないのです。

本当のブッダの重要な原則をある程度学んで知り、良く考えて理解し、実践して多少でも結果を実感すれば、従来の信仰は元より、ブッダの言葉以外の仏教と見なされている知識には関心がなくなります。それと同時に「自分、自分のもの」という感覚が薄くなり、少なくても「この体」は自分のものではないという感覚が生まれます。そうすればそのとき預流果に到達します。

だから私が従来の信仰に関する冒頭の質問に答えるとしたら、「お母さんと手をつないだまま、先生の話を聞いたりお友達と遊んだりしでも、幼稚園で学ぶべき心の成長は、何も期待できませんよ。先々学校で学ぶために、お母さんの手を離すことを目指しましょう」と言います。

トップの勘違い

ある歌手が提唱して毎年行っていたチャリティーコンサートの収益金で、海外の貧しい地域に建てた学校に、代表者である歌手の名前がついているのを見たとき「ちょっと違うんじゃないの。なんで会の名前でなく代表者の名前なの」と思いました。
 
同じような違和感は、どこの慈善団体にも感じます。関わったことがある幾つかのボランティア団体も、海外に寄付や援助をして、代表が王族や国の重要人物から感謝状をもらっている写真を、内外の人に自慢そうに見せていました。そのたび内心で「それってあなたの手柄なの? 力を合わせたみんなの成果じゃないの?」と思いました。

 慈善団体ばかりではありません。会社や事業も社員なしでは成立しないのに、業績のすべてを自分の手柄のように感じている事業主は多いです。実際に「従業員は幾らでも代替えができるが、社長は自分以外ではあり得ない」と勘違いしています。

 これは、多くの細胞の集まりである身体を、自分と捉えて満足している人間の自我と同じ構造だということに気づきました。

 私は男性に負けない立派なすね毛をしています。それを面白がりこそすれ気にしたことはありませんが、若い頃何度かカミソリで剃ったことがあります。

 剃り始めて一、二度は変わりありませんが、三度目くらいから、毛の生え方が変化して来ます。すぐに生えてこないで、皮膚の表面のすぐ下で渦巻いたり、横に這っているのが透けて見えます。すぐに皮膚の外に出ないで、少し伸びた段階で皮膚を破って生えてくるので、突然二センチくらいになります。生えてもすぐに剃られてしまうことに気づいたすね毛が、剃るという妨害に耐える方法を考え、皮下を這うのです。

 これを見たとき、すね毛か毛根かは知りませんが、身体の一部分は考えることができるのだと知りました。すね毛自体が剃られていることを感知し、対策を考え、それを実行します。これはすね毛ばかりではありません。
 直射日光に当たると、皮膚の組織が損傷するので、皮膚が紫外線を感知し、対策を考え、メラニン色素を皮膚の表面に集めて防御します。
 急に寒さを感じると体温を上げる方法を考え、身ぶるいを起こして体温を上げます。
 満腹になってもまだ食べるのを止めないと、胃がそれを感知し、それを知らせるために食べすぎ警報であるゲップが出ます。

 これらはほんの一例で、体は日常的に起こる様々な異変やトラブルに対して、それを感知し、対策を考え、実施しています。これらの「反応」と呼ばれる身体の組織の働きは、「私」が考えてしているのではありません。組織自体が「私」を通さずに考えて実行しています。

 会社や工場で、日常的な異変やトラブルに対して、「社長」に伺いを立てることなく個々の社員や担当部署が感知し、考え、対策しているのと同じです。個々の社員の判断と考えと対策が正しければ会社の業務は正常に維持できます。対外的な経営は別として、社内の業務の成否は、社員の働き次第です。

 人間も「私」が何をするかは「私」次第ですが、体が正常に維持されているのは、「私」ではなく体の各組織が、内外の変化を正しく感知し、判断し、対策しているからです。

 こう考えたとき、何万人もの社員を抱える社長が「○○会社は俺で、俺は○○会社だ」あるいは「従業員は俺のものだ」と考えていたら大きな勘違いであるのと同じように、何万何億という細胞の判断や働きによって維持されている身体を、「これは私だ」「これは私の身体だ」と考えることも、ブッダが言っているように勘違いだと言うことが分かります。

 事実、大会社の社長は、不祥事があるたびに首のすげ替えが行われます。その時「私は○○会社だ」という考えが、ただの思い込みだったことに気づきます。
 個人は首のすげ替えや看板替えはしないが、結婚や縁組みなどで姓が変わったりすることはあるし、芸名やペンネームをくるくると変える人もいます。
 
 「私」の体を構成している各器官、組織、細胞も、「私」と同じように音や光や温度や、いろんなことを感じ、考え、考えた通りに行動することができる生物であり、ただ精緻さが違うだけです。私は一人の生き物ではなく、無数の生き物の集合体なのです。だから「私」というのは、今だけ社長の座にある雇われ社長と同じだと理解します。今だけタンマダー。今だけ人間。今だけ日本人。今だけ女性。今だけ初老の老婆。今だけ・・・。

 いま呼吸が止まって、体の組織や細胞が働きを止めれば、明日はただの元素の集まりになり、明後日か次明後日にはその元素もバラバラに飛散して、他の人や他の動物の組織の一部になります。

 バラバラに分解した機械から、その機械の「働き」が失われるように、バラバラに分解された体から、心身の働きは消え、新たな体として組み立てられた時、また心身の「働き」が生まれる、それだけのもの(サンカーラ)なのですから。

興味のないこと

たとえば家族で旅行に行って、駅からホテルまで繁華街の道を歩いたとします。ホテルに着いて今歩いてきた通りについて話すと、それぞれが見ていたものが違うことが分かります。

若い人は、コンビニやゲームセンターやファッション小物店や模型店などの店を憶えていますが、親や祖父母世代はそんな店があったことも気づいていません。しかし祖父母たちは、呉服屋や和菓子屋や紙屋、陶器屋などがあったのを見ています。

また、家族の誰も見ていない、剥製の店や猟銃店があったことを、猟に興味がある父親だけは気づいています。母親はスーパーマーケットや美容室や洋品店を見ていますが、子供や年寄りが見ているような店はまるで記憶にありません。つまり同じ道を歩いても、興味の方向によって見ている物、気づく物が違います。

昔、町へ出かける兄に、母が4丁目の小間物屋での買い物を頼んだら、兄は3丁目から6丁目まで往復したがそんな店はなかったと言って、用を足せずに帰ってきたことがありました。良く知っている地域でも、注意して探しても、興味のないものはまったく目に入らないと言うことです。もしかしたら、小間物屋というイメージが具体的に分かっていなかったから、その前を二度歩いても気がつかなかったのかもしれません。
 
これはテレビを観たり、本を読むときにも同じことが言えます。同じものを観たり、読んだりしても、人によって注意して見ていることが違います。大人と子供でも、男と女でも、若者と年寄りでも、みんな注目しているところが違います。だからどんなに良い本を読んでも、自分の興味の範囲外のことは頭に入りにくいということ、気づきにくいということです。

人は通常、現在の知識に応じた興味があり、それ以下のもの、それを超えるものには関心がありません。つまり小学生は幼稚園の本や中学、高校の本には興味がありません。しかし小学生向けの本に満足していない小学生は、中学校や高校の本を興味深く読むかもしれません。

だから知的な意味で現状に満足していれば、言い換えれば、今ある自分の知識に執着していれば、読書をしても、話を聞いても、新たに得るものはあまりないかもしれません。

俗人であったサーリープッタがアッサジから、「どんなものにも、それを生じさせる原因がある。教祖はすべてのものの原因について言います。そして原因が消滅したことについても言います。偉大な出家はそのようにおっしゃいます」とだけ聞いて理解し、それこそが死を超越するタンマだと悟ったのは、それまでの知識に満足せず、真理を希求していたからです。つまりサーリープッタの心には、真理が入る場所が用意されて、その時を待っていたのです。

現在の知識や智恵に満足していれば、心には新たな知識が入る場所がありません。しかしこれは、新しい知識を切望していれば、かならず新しい知識が入るという意味ではありません。知性が今の知識に満足せず、より高い、より深い知識を求めるなら、求める知識に出会えば取り入れることができます。

しかし貪欲ゆえに満足せず、煩悩が無節操にただ新しいだけの知識を漁り求めているなら、たとえ、より高いより深い知識や真理を聞いたり読んだりしても、その真価に気づくことなく、ただ耳や頭を通過するでしょう。なぜなら新しい知識を求めているのは煩悩であり、知性ではないから。知性は今ある知識のレベルに満足し、より高いものなど求めていないからです。

だからたくさんの人がブッダの話を聞いても、良い師の薫陶を受けても、伝統工芸や建築などの技術と違って、タンマは師から弟子へそのまま伝授されないのでしょう。

もし、正真正銘ブッダの教えやその説明を読んで、少しも心に響かないならら、自分の興味がそのレベルに達していないのかもしれません。

今あるタンマの知識や智慧が滅苦という観点で最高でないなら、知性でより高い知識を求め、心に新しい知識の居場所を用意することです。いまある知識のどこがどう物足りないのか熟慮することです。熟慮を繰り返すことで、真理を要求する心が高まります。

そうすればより高い知識に触れたとき、既存の知識への執着が新たな知識の侵入を妨害することなく、知性によって歓迎される。そして知識や智慧を、段階的に高めていくことができます。

ワンプラ(菩薩日)

心には幸福(喜)と不幸(苦)とどちらでもない状態の、三つの状態があります。
ブッダは幸福も不幸も、苦は同じと言われ
ています。世俗の幸福の裏側には不幸が隠れているので、真の幸福ではないからです。

ブッダが言う本当の幸福とは、真ん中の、幸福でも不幸でもない状態を「幸福」としています。これを中道と言います。転げ落ちる心配のある山の頂きでもなく、光の見えない深い淵の底でもなく、安定した平地のような状態です。

幸福な状態と不幸な状態は、誰でも日々体験しているので分かると思います。

満足できる状態が「幸」で、耐え難い状態が「苦」です。
田舎の親戚の家や、長期滞在のリゾートなどで寛いでいる時、あるいは家で独り留守番をしている時などに感じる開放感などが、「幸福でも苦」でもない状態です。 何も心を楽しませるものはないけれど、心を苦しめるものもない状態です。

ブッダは三番目の状態が一番良いと言っています。

世俗のすべてのものには、それと同じ三つの状態があります。
たとえば豪華で快適な住まい(幸)と、家も安定して寝るところもない、ホームレスや非難所などの生活(苦)と、贅沢ではないが住む所がある状態(普通)、贅沢な食べ物(幸)と、他人の食べ残しや捨てたものや捨てる寸前の食べ物、あるいは食べ物がない状態(苦)と、普通の質素な食べ物(普通)、豪華な装飾や高級素材を使った衣服(幸)と、他人が捨てたものや用が足りない衣服(苦)と、普通の使える衣服(普通)、です。

これらの三つの状態の味は、幸福と、苦と、幸福でも苦でもない状態です。

幸福も不幸も心の苦しさは同じですから、豪華で贅沢な生活をすれば、非常に困窮した生活と苦しさは同じです。幸福の絶頂でも苦しみを感じることがあるのはこのためです。

タイにはワンプラという日があります。陰暦の毎月8日、15日、23日、30日、つまり新月と満月と上弦、下弦の日に、通常守っている五戒のほかに、三つ追加して八戒を守ります。
追加するのは、正午から翌朝まで食事をしない、一切の楽しみを避ける、高いベッドや厚い布団で寝ない、です。

戒は何でもそうですが、言葉で言われているより深い意図の広い意味が含まれています。
これらは日頃贅沢な暮らしに慣れていると、心が「真ん中のちょうど良い状態」「普通という程度」を忘れてしまうので、ちょうど良い状態、普通の状態を常に忘れないためにある、在家の習慣です。

だから食事は、日頃忘れている質素な食事にし、午後は飢えの感覚を味わいます。朝昼に豪華な食事をしては意味がありません。
一切の娯楽も同じです。質素な服を着て、何も心を楽しませるものがなくても、心を苦しめるものが無ければ幸福であることを知ります。
脚の高いベッドというのは、快適過ぎない住まいという意味です。

これらは八正道の中の正しい生活という項目です。
正しい生活とは、泥棒や殺生をしないという意味ばかりでなく、贅沢でない、必用なだけの質素な生活のことです。

現代人が昔の人より精神的な苦が多いのは、日々贅沢を求めて思い通りにする生活に慣れすぎたために、思い通りになるはずのない人間関係や心の面まで、思い通りにしたいと願う「わがまま」を育ててしまったからです。

ブッダや出家僧が私物を所有せず、必要最低限の質素な暮らしをしているのは、物質的豊かさと心の純潔は共存できないからです。

私たちが苦しみを減らすには、苦しみの仲間である怒りや欲望や煩悩を減らすには、生活を、豊かでも欠乏でもない、真ん中の状態にしなければなりません。

そのために、先ずはワンプラをやって見ませんか。週一回、半日飢えを体験するだけでも、ずいぶん自分の心を管理できるようになります。

突然食事の回数を減らすのが大変だったら、粗食を腹八分目にすることから始めてみてください。戒にこだわらず、出来ることから始めます。粗食にするだけでも新しい感覚を知ることが出来ます。
一番安価な服を着て、歌舞音曲、ドラマや映画も見ない、楽しみの読書もやめてみてください。 世界には、日頃忘れている生活があることを思い出します。

「普通」とは、質素と豪華の「中間」ではありません。欠乏と陶酔する程の豊かさの中間の、「欠乏のない状態」「人らしく生存できる状態」が「普通」 です。だからときどき不味いものを食べて、「生きるために食べる」原点を認識する必用があります。感覚や心が思い上がらないためです。

正しい「普通の感覚」をもたなければなりません。普通という感覚を狂わせないようにしなければなりません。
「普通」とは、質素な食べる物がある状態です。それが苦でない普通の状態であると同時に、苦を生じさせない状態でもあります。

ワンプラを体験してそれを知ってみませんか。

ブッダの教えは、質素な暮らしの中でだけ理解できるものだと思います。

ある日突然、苦は消えた

タイの仏教の本を初めて読んだのは十数年前、チャヤサロー比丘の法話集でした。
 特に心に残ったのは、「心と心の中にあるものは別だということ。自分の心の中にあるものを見分けること。受蘊(感覚)か、想蘊(記憶)か、行蘊(考え)か、あるいは欲望か煩悩かを見分ける。受蘊ならば何の感情かを見分ける。見分けるだけでそれらは減っていく」という要旨でした。

 心の中にあるものを見分けるのは、すぐ習慣になりました。すると次第に無駄な考えが消え、その分だけ(タンマに関した)熟慮をしている時間が多くなりました。そして一年半以上たった頃、タンマタート著「初心者のための仏教」を読んでいる時、すべてを変えるような不思議な体験をしました。

 当時信頼関係は完全に破綻しているのに離婚に応じない夫を嫌い憎んでいました。顔を見るのも声を聞くのも、鳥肌が立つほど嫌悪していて、日常生活では可能な限り接触を避けていました。しかし冠婚葬祭の時は一日中行動を共にしなければならないので、非常に苦痛でした。親戚付き合いだけは仕方ないと思いましたが、夫が他人の仲人まで引き受けてくると、日頃抑えている怒りが爆発しました。

 ところが、夫からまた仲人を頼まれたと聞いたとき、いつもなら「何度言ったら分かるのよ。二度と引き受けないでと言っているでしょ」と怒りが噴出するのに、反射的に、「仕方ないか。夫にも断れない事情があるのだろう」と感じました。そして以前のように、自分は夫を嫌っていないことに気づきました。

 離婚を望んで二十年近く自分を縛りつけていた苦しみが消えて、心が自由になったのを感じました。離婚してもしなくても同じだと感じました。外的状況は何も変わってないのに、幸福を感じました。 非常に根深く激しい夫への憎しみが消えると、同じくらい深く強い喜びが心に広がっているのが見えました。

それまで嫌いだったもののことを考えても嫌いでなく、憎んでいたものも憎くなく、強く引かれていたもの(音楽や文学や映画など)にも関心がなく、世の中のすべてが「どうでもいい」ことに感じられ、またすべてが「ちょうど良く」「これでいい」、つまり多すぎず足りなくもない、と感じました。

「人生って何? 何のために生きるの?」を初めとする、いまで答の得られなかった人生や世の中に関する数々の疑問もすべて消えました。答が得られたからです。

 物質的、あるいは世俗的に何か良い事があったわけではないのに、それまでと何も変わっていないのに、心が変わっただけで無上の幸福感に包まれました。生きている喜びを感じ、生きてきたことに感謝を感じました。自分は最高に幸せだと思いました。

 すべてがちょうど良く、それ以上に欲しいものがないので、物質的欲望はもちろん、他人とお喋りしたい気持も無くなりました。他人と話したい欲求は、賞賛や共感や同情や楽しみなどを求める気持ちから生じるので、そうしたものを欲しがらなくなると、(求めなくても十分幸福だから)話したい気持も起こりません。

 あの人と話してみようかなと思うとき、心の中に、その人から賞賛や同意、共感などを求める気持が見えるので、そういう自分が馬鹿らしくなります。期待どおり求めているものが得られれば、癖になってもっと欲しくなるし、求めたものが得られなかったり、反対のものが返ってきたりすると、不満や落胆が生じるだけだからです。

 人と喋りたい欲望がなくなると、寂しさや人恋しさがなくなり、これは非常に生きることを楽にしました。

 すべてがどうでもいいことになると、死の恐怖も消え、死の恐怖が消えると、他のすべての恐怖も消えました。状況が悪化することへの恐怖や、つまらないことを恥ずかしいと思う感覚も消えました。どうでも良い事ばかりだからです、あらゆるものへのこだわりがなくなりました。

当時の私は、友達より周囲の誰よりも不幸だと考えていましたが、当時の苦の九十九、九パーセントが突然消滅したと感じた時から、この世界で一番幸福な人間だと思えるようになりました。

その時から、ただ何となく実践し続けただけでこのように私を変えた「タンマ」を、日本人が読んで理解し、そして実践して、「苦は本当に減らせる」と自分で確認していただけるようにすることが、私の努めと信じ、その確信に従って生きています。

(その後、チャヤサロー比丘が話していたのは、ターン・プッタタートの「煩悩に餌をやらないで餓死させて全滅させる」という手法、つまり四念処だと知りました。そして突然現れた幸福は四禅と呼ばれる状態だったことが分かりました)。

善男善女

昔の仏教徒は、仏教を信仰する家に生まれて、物心が付いた時からタンマ(仏法)の教えの中で育ちました。だからタンマが心に沁みついて、おおむね教えに従った生活信条で生きていました。そういう人を仏教徒と言いいました。

現代の仏教に興味のある多くの人は、葬式仏教の家に生まれ、教えを知らずに育ち、若者や大人になってから世俗の知識の一つとして興味を覚え、世間に溢れている、つまりブームになっている知識を学び、瞑想などをします。そして「宗教は嫌いだが仏教は好き」とか、「仏教は宗教ではない」などと言います。つまり、教えを実践する気持ちがありません。あるいは人間らしく生きるために実践するもの(つまり宗教)と知りません。

ブッダの仏教は、ブッダと契約したり、宣言して仏教徒になるのではありません。仏壇(先祖の位牌を納める厨子であって、本当は仏壇ではないが)のある家に生まれれば仏教徒ではありません。ブッダの教えに則った行動をする人を仏教徒と見なします。

ブッダの教えに則った」というのは、三毒(貪・瞋・痴)を発生させないようにし、「やたらに殺生をしない」「決して盗まない」「努めて嘘を言わない」「絶対に他人が愛好するものを侵犯しない」「滅多に酒類を飲まない」など、他人を苦しめ、その結果自分を苦に追いやらない正しい生活、身勝手や自分の楽しみに陶酔しない、地味で慎ましい生活をすることです。

形式でない五戒、つまり満足して五戒を基本にし、三毒を生じさせない生活をする人を、仏教では善男善女、あるいは清信士、清信女と呼び、意味は仏教徒と同じです。それから外れる生き方をしている人は、すべて悪男悪女です。現代の仏教に関心のある人には、仏教の教え(八正道)に基づいた正しい生活をしようとする人はほとんどいないので、行動の正しさから(戒)生じるサマーディ(心の安定。三昧)がありません。サマーディがないから、いつも不安があり、ストレス(つまり不満)があります。

多数の悪男悪女が作った意業の集合の結果が、大規模災害の頻発、普通になってしまった異常気象、雇用の問題、ひどくなる一方の疾病と体の障害、メンタルな問題、痴呆や介護の問題、市場の混迷など、世界の人が遭遇しているすべての問題です。

社会のほとんどの人が善男善女であった時代、つまり貪・瞋・痴が少なかった時代や地域は、何百年に一度、あるいは何十年に一度しか災害や異常気象が生じず、誰にも仕事があり、個人の心身の問題は単純なもので、景気の変動もそれほど大きくありませんでした。

難しい修行をしなくても、ただ人々が善男善女になるだけで、つまり贅沢な食(貪)と物質への陶酔(貪)、あらゆるものへの怒り、つまりストレスという感覚(瞋)と、性への耽溺(痴)を止めるだけで、苦は激減し、社会は静かになるのに、そうした面に関心を寄せる人はいません。

現代人は、「善男善女でなければ悪男悪女である」という真実を見落としています。だから自分が悪人であることも知らず、誰でもする当たり前のこととして五戒を犯します。つまり殺生(殺虫剤の乱用)や盗み(会社に売り渡した時間を私的に使うことや、コピペによる盗用、著作権侵害など、無意識で行なう不正)や、他人が大切にしている物を犯すことや、嘘言や飲酒を日常的に繰り返しています。

そしてブッダが「悪趣の入り口」と言った「女(異性・同性)に溺れること」「酒(や薬物)に溺れること」「ギャンブル(投資も含める)に溺れること」「悪友(正しい見解でない人)と付き合うこと」を、たくさんの「普通の人」がしているから、先ほどあげた現代社会の状態、つまり悪趣である地獄(怒りやストレス。抗議や訴訟)・餓鬼(贅沢や貪り)・修羅(恐怖、不安)・畜生(欲情への耽溺)の状態に陥り、その集合的な報いである危機に、頻繁に直面しています。

人は、自分の身勝手や我がままに気付き、道徳によって生きる善男善女になって、初めて「人間」と呼ぶことができます。それ以外は、「衆生」と呼ばれるただの「生き物」でしかありません。パーリ語で人間という意味の「マヌッサヤ」は、「高い心を持った生き物」という意味だそうだ。

人間としての基本的な正しさは、世俗的な幸福と宗教的(人間的)な発展のすべての基礎です。「戒」などという形式で掴む必要はありませんが、先ほど述べた「ブッダの教えに沿った」生活を信条にして(つまり正しい見解で)、善男善女にふさわしいの生活をすれば、同じブッダの教えを学んでも、今まで見えなかった部分が見えてくるはずです。

悪以外に心の目を曇らせるものはなく、善(悪がないこと。布施など物質的なものではない)以外に心の目の曇りを拭えるものもありません。
悪以外に心を乱すものはなく、善以外に心を鎮めるものもありません。
社会を乱すもの、静めるものもまた同じです。