ほとんど煩悩のない感覚

お題「人生で一番古い記憶」

妹が生まれたのは、私が二歳八か月の時でした。記憶では、庭で遊んでいた私に、産婆さんが棒に刺さった縞模様の飴玉をくれました。あるいは、飴を貰って、外で遊ぶよう追い払われたのかもしれません。貰って嬉しいとか、そのような感覚は記憶していません。

 

そして初めて妹を見た時、臍が腹の少し横の方にありました。変だとか、何故だとか感じた記憶もありません。ただ(自分の臍とは違い)「横にある」と感じました。そして次に妹を見た時、臍は当たり前の場所に戻っていたので、母に「臍が動いた」と言うと、「臍は動かないよ」と言われ、一瞬腑に落ちない気持ちになったのを憶えています。それ以上考えませんでしたが、この会話があったから、この日の出来事が長く記憶されていると思います。

 

これは多分、最初に見たのは臍の緒の切り口が黒っぽくなった部分で、それを私が臍と勘違いし、二度目に見た時は臍の緒が取れた後だったと推測します。

 

今思い出して感じるのは、幼児の感覚は大人と違うということです。大人なら初めて赤子を見た時、先ず顔を見ますが、顔は見ていません。少なくとも見た記憶がありません。二歳の私には、顔は重要ではなかったのです。あるいは「何が重要、何が重要でない」という区別がなかったようで、目の前に赤子の腹部が見えたので見て、臍の緒の先を臍と理解し、それについて「変だ」とか「なぜだ」とか考えず、顔などの他の部分を見ようという考えもありません。

 

見えた物を見ただけ、見る行為だけで、ほとんど思考や感情がなかったと思います。産婆さんがセロハン紙を剥いでくれた飴玉を嘗めたのは憶えていますが、美味しいとか、嬉しいと感じた記憶もありません。いろんなことを考えれば、その考えも一緒に記憶しているはずです。もっと成長してからの記憶には、悔しかったとか、悲しかった、恥ずかしかったなど、行動と、その時の感情が一緒に記憶されています。

 

まだ煩悩がほとんど生じていない、考えることが習性になっていない時の記憶は、まだ動物のように、受(満足、不満足の感覚)や執着がない二歳の自分の心の様子が観えて、懐かしくて新鮮な気持ちにさせます。