大切なのは意業

政治にあまり関心はありませんが、最近、どうしようもないほど幼稚になっているように感じます。根本的な制度を整えないで、手っ取り早く手当て(お金)を配る策が増えました。しかも、欠けている所、必要としている層にではなく、ガサツに、誰にでも配ります。幼稚というか、無能というか、もう政治とも言えないように見えます。

昔から大金持ちや領主や国王は、貧しい人に米や布などの施しをしました。自分の財産を分けてやるなら、悪いことではありません。分ける人の徳になります。しかし、国民から集めた税金を無策にバラマキ、いろんな物を無料化し、足りなくなったら増税をするのは悪政、愚策です。対象を精査せずにお金をばら撒くのは、何の能がなくてもできます。多少の能のある人には、却ってできません。

民主主義が入って来たばかりの時代には、何も考えず、「ゆりかごから墓場まで」面倒を見てくれる政治が良い政治と憧れた面があります。そして、ゆっくりとその方向に進んでいます。しかし考えてみてください。税金を払うだけで、国がすべてを面倒見てくれる政治は、自然の法則に反しています。

ほとんどすべての行動には、意業が伴っています。意業と発言が一体になったもの、意業と行動が一体になったもの、そして意業そのものの三種類のカルマによって、私たちが日頃受け取る結果があります。たとえば親の扶養や貧しい人の援助、その他の支援金も、直接お金を渡せば、たとえわずかでも感謝や慈悲の意業があり、その結果(業の報い)は、その人を発展させ、満足できる方向へ後押しします。しかし、給料から天引きされた税金で、国や行政によって親や貧しい人に支払われる時、資金を提供した人の意業はありません。

お金は動きますが、そこにはお金を出す人の善はありません。そして受け取る側も、直接貰うなら、たとえ少しでも、不足でも、よほど根性の曲った罰当たりな人でない限り、感謝こそすれ不満に感じる人はいないと思います。しかし、公的な支援の場合、かなり十分な額を受け取っている人も「まだ足りない」「もっとほしい」と言います。個人から貰うなら、まだ日本人は、遠慮する心を忘れていないように見えますが。

公的支援制度が整備されればされるほど、納税世代の人は徳を積む機会から離れ、徳を積む意志を失い、支援を受ける層は貪欲になり、恩知らずになります。

今のようにどうしようもない政治ではなく、たとえばブッダアショーカ王のような非常に徳の高い人が、国民から高い税金を集めて、老人も病人も失業者も、すべての人が普通の生活が保障されるような形の、あるいはすべて無料で暮せるような制度にしたら、人間は幸福になれるでしょうか。

仮にそのような制度が立ちゆくなら、物質的には、理論的にはすべての人に必要な物は行き渡ります。しかし人には善を積む機会も意志もなく、貪りを増やす機会ばかりが増えるので、現在の日本のように、煩悩野放しの状態になります。ほとんどの国民がほとんど善を積んでいなければ、その人たちの運勢が落ち目になった時、一斉に困窮状態になります。

他人の世話にならずに生きるためには、他人の世話をしなければなりません。「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」を原則に生きている人は、それ自体が身勝手で、自己中心的で、正しい見解ではないので、最終的には他人の世話にならなければならない状態になり、迷惑を掛ける結果になります。

国民を幸福にするには、物(お金)を行き渡らせることではできません。「すべての人間は自分の業の結果を受け取って生きるので、この世で幸福に暮すためには、欲望を抑えて善い業を積まなければならない」という知識を、国民の常識にしなければなりません。

この国、あるいは市場主義社会はどこも、経済でではなく、著しいカルマの偏りによって、まもなく破滅するように見えます。

諦めは悟り

自分では解決できない不運に遭遇した時、願いが入れられない時、あるいは思った通りにならない時、傲慢な人は怒りに囚われて抵抗し、気力の弱い人は嘆きや悲しみに陥り、知恵のある人はいろんな画策をめぐらし、いずれにしてもなかなか立ち直れません。現代の人は、常に欲望を叶える機会が多いので、執着が強く、諦めを知りません。

恋人に振られても、家が火事になっても、津波や土砂災害で家財一切と家族を失くしても、人に裏切られても、騙されても、何かで家や財産や家族まで奪われても、いずれにしても恨んだり悲しんだりして時間を費やすことには、何の利益もありません。(考えている間中、際限なく悪い意業を作り続けるだけです)。一時も早く諦めて、今何をするべきかを知り、その時できる「するべきこと」を始める方がよいです。

昔は「諦めが肝心」と言いましたが、最近はそういう言葉を聞きません。私の子供の頃の歌謡曲には、諦めという言葉がよく使われていて、社会が「諦めること」を重要と見ていたことが分かります。最近は「諦め」と言うと、挫折すること、中途で投げ出すこと、辛抱が続かないことなど、悪い意味で使われ、悪い意味の言葉になっているのか、「諦めないこと」と言い、「諦めない」と言う人を支持する傾向にあります。しかし本当の意味の諦めは、最高に良い意味です。

諦めとは、明らかにすることです。高くすることを高めると言い、狭くすることを狭めると言い、弱くすることを弱めると言うように、「める」というのは、前の言葉の状態にすることです。だから諦めるは、明らかにすること、ハッキリさせることです。四聖諦というのは、ブッダが明らかにした四つの真実です。

人が、何かを諦めるには、それなりに深く考えなければなりません。誰かに「諦めなさい」と言われて、「はいわかりました」と諦めることはできません。どうしようもないことを繰り返し考えた末に、たとえば失恋なら、「考えても元には戻らない」とか、「もっと良い人に出会う機会はまだある」とか、「恋愛は苦しいだけなので、もう懲り懲りだ」などという理屈を探しだし、それで納得できれば諦められます。それが、その人のその時のレベルの真実です。

そして、一度諦めた経験は、次に同じ種類の出来事に遭遇した時、簡単に諦められるようになります。そして諦めを繰り返すうちに、諦める時に掴む「理屈」が、だんだん高度になっていきます。そして何度か諦めた経験のあるものには、次第に強く執着しなくなります。

諦めるまでの経過を見ると、生活レベルの「諦め」はレベルが低いだけで、ヴィパッサナーと同じだということが分かります。まだ諦められないうちは、欲望と執着で煮えたぎっていますが、「諦めること」を目標に考える時、いろんな真実や理由を探します。そして諦められたとき、その人がその時見えるレベルの真実を悟ります。

努力して諦めなければ、執着の威力に身を任せて時間を無駄にし、時間の経過と共に執着と憤懣が衰えるのを待つだけなので、どんな低いレベルの真実も掴むことはありません。そして一旦衰えた執着も、疲れて眠った子供が、起きれば再び執着している玩具を握りしめるように、切掛けがあれば再び強い執着に囚われます。

東日本大震災の復興に関してテレビで見て知る限りでは、現代人は非常に諦めが悪いように見えます。阪神大震災の時は、もう少し諦めが早かったように見えました。特に集団で同じ被害に遭っていると、集団で抗議や補償請求する機会があるせいか、津波より原発事故被害の方が、より強い欲望と執着に囚われて、諦めの方向が見えないようです。(心の問題として諦めても、するべきこととして、いろんな手続きや申請はできます)。

諦めれば、何らかの真実を悟ります。諦めに至る思考が重要です。実践の話をしていると、時々(本当の意味の)ヴィパッサナー(観)の仕方を理解できない人がいますが、そういう人は諦めに至る心の過程を経験したことが無く、不満に遭遇すると怒りまくるか、あるいは悲しみに沈んで、後は時が解決するのに任せるような処理をしてきた人かも知れません。


涅槃を目指すにはヴィパッサナーは欠かせません。アーナーパーナサティの最終段階である第四部は、ヴィパッサナーの部であることからも分かるように、瞑想をする本来の目的も、後でヴィパッサナーをするためです。

ターン・プッタタートが「ヴィパッサナー労働者」の中で、経典の中には、花が散るのを見ただけで解脱した人がいると言っていますが、そういう人は、仏教に興味を持ってヴィパッサナーをする以前に、生活の中で諦めを何度も経験して慣れているので、ブッダの手法でヴィパッサナーを始めると、目覚ましく上達すると分かります。

諦めが早い人は、世俗的な意味で「悟っている人」「賢い人」で、その分だけ苦が少なく、タンマの意味の悟りにも近い人です。諦めが悪い人は、「悟っていない人」「まだ愚かな人」で、その分だけ苦が多く、闇の深い人です。「人は挫折によってのみ成長する」という言葉がありますが、良く観察して見ると、人格的成長は挫折によってではなく、挫折を「諦める」ことによって、成長すると気付きます。

そして後で、仏陀が言われている類のヴィパッサナーをする時、すぐにヴィパッサナー上手になります。まだ自然のヴィパッサナーの仕方が分からない方は、「諦める思考過程はヴィパッサナー」と見て、機会がある毎に諦めるようにして、諦めに至る過程をヴィパッサナーの練習にしてください。

『何も、「これは自分、これは自分のもの」と執着できるものはない』という諦めに至れば、その時は阿羅漢です。


執着している子供や友人がいたら、諦めに導く道理を教えて、諦める手伝いをしてやってください。諦める過程は精神的経験そのもので、心の財産になります。努力して諦めずに、時の経過に任せてウヤムヤにすれば、どんなに苦しい体験も、何の薬にもなりません。どうぞ「諦めに至るまでの思考」の重要性を見直して、諦めを最大限に心の向上に役立ててください。


仏教という名のヒンドゥー教

タイの仏教の本を翻訳し始めてから十余年の間に、たくさんの「仏教に関心のある人」に出合いました。しかし「仏教に関心がある人」の多くは瞑想に関心がある人であり、ブッダのタンマとその実践は、瞑想の進歩を助けるものくらいに捉えているようです。だから仏教徒であること、清信士、清信女、つまり善男善女(ブッダの教えにしたがって静かで慎ましく、正しい生活をする人)であることにも関心がありません。

本当の意味の仏教徒は善男善女なので、本当の意味の仏教徒でなければすべて悪男悪女であり、悪男悪女は異教徒です。異教徒は当然滅苦に向かう仏教の道を歩むことはできません。日本に限らず、世界中の「仏教に興味がある人」のほとんどが「瞑想に興味がある人」である理由は何なのかを洞察してみました。

それは、インドは中国に次ぐ人口の多い国であり、インドの宗教の多くが瞑想をするからではないでしょうか。インドで繰り返し生きたことがある人がヒンドゥー教のない国々に生まれると、ヒンドゥー教に近い仏教全般に関心を持ち、そして瞑想をして、それを仏教と理解します。

大昔は日本とインドの間に縁はありませんでしたが、インドで生まれた大乗仏教が浸透するにつれて、インドでバラモン(階級)として生きたことのある人が日本に生まれ始めます。バラモンは在家の僧であり、儀式を司る人なので、中世後半から、日本の仏教は葬儀を行なうようになり、妻帯する僧侶が現れ始めます。その後、インドでバラモンとして生きたことがある人との縁を頼って、政治や闘いをする階級であるクシャトリアだった人が生まれて来ると、日本に武士階級が生まれ、武士が政治をするようになります。

江戸時代になるとカーストとよく似ている「士農工商」の身分制度ができました。「士」はクシャトリア、「農」はバラモンと僧侶、「工商」はバイシャで、その下はシュードラに相当します。違うのは、インドではバラモンが制度を作ったのでクシャトリアより上ですが、日本で制度を作ったのが武士だったので、武士を最高位に制定している点だけです。

古代ギリシャにあった身分制度は、市民と奴隷の二階級だけであり、朝鮮半島にあったのは、両班(貴族)、中人(工商)、常人(百姓)、賤民であり、その区分は明らかに異なります。バラモン教の考えなしに、農を上から二番目に規定する考えなど、誰が考えるでしょうか。

なぜバラモン教の人たちが日本にたくさん生まれるようになったのかを見ていくと、インドの北部は、十世紀後半からたびたびイスラム勢力の攻撃を受け、一二〇六年から約三百年間、イスラム王朝に支配されていたのが分かります。つまり、その間、その地域にバラモン教の人は生まれていません。その時代の日本とインドとの接触があったという説は聞いたことはありませんが、不思議なことに戦国時代や安土桃山時代の城の形は、インド北部の家に良く似ています。

たとえば帝釈天、弁財天、毘沙門天鬼子母神などはすべてヒンドゥー教の神ですが、それが日本中に祭られています。それらの神を守護神として祭った武将もいます。これらの事実は、当時の日本には、過去世でインド人として生きたことがある人がたくさんいた、ということを表していないでしょうか。

地図でお寺の記号になっている卍は、ジャイナ教のシンボルマークですが、至る所のお寺にあります。最古のは薬師寺の仏像の足の裏に書かれているものだと言われています。なぜ足の裏かを考えると、仏教ではない印を仏像に密かに書く場所は、足の裏くらいしかないからで、隠れキリシタンが仏像の裏に十字架を書いていたのと同じ心理ではないでしょうか。
その後次第に大胆になり、堂々と表を飾る模様に使われ、お寺の印になりました。

大乗仏教の神々はみなヒンドゥー教から取り入れたものであり、瞑想を修行の王道とすることや、いろんな儀式をあること、大我と一体になることを目指す点などは、パラマートマンと一体になるヒンドゥー教に酷似しています。そして大乗には、ブッダが禁じた「苦行」の類をする宗派もあります。

いろんなタイプの肉食を避けることも、インドのいろんな教義、特にジャイナ教の考え方ですが、江戸時代の日本では四足の動物の肉を食べることを禁じ、中国の仏教は、インドで神聖な動物である牛を食べることを避けました。生類憐みの令のような極端な動物愛護もジャイナ教です。その思想が発展して、食べ物を食べずにミイラになることを崇拝しますが、日本にも即身仏になるお坊さんがいます。

ヒンドゥー教では、ブッダを神の一人としていますが、大乗の釈迦如来も、多くの如来の一人です。以上の様々な角度から見ると、大乗は東アジアのヒンドゥー教ではないでしょうか。


 教義の点から見ると、アッタカター(シンハラ語からパーリ語に翻訳された経)にはヒンドゥー教の経が幾つも混入していると言い、「ヒンドゥー教と仏教の教義の違いは、無我だけ」とターン・プッタタートは言っています。
 
ブッダの仏教は東南アジア一帯と見られていますが、それらの地域の仏教も、宗教儀式があることを見れば分かるように(ブッダの仏教には宗教儀式はありません)、すべての地域で大乗とテーラワーダが混合しています。先ほど述べたように、過去世でヒンドゥー教が沁みついている人が多いので、大乗やヒンドゥー教と同じ部分を好むからです。だからターン・プッタタートがいつも指摘していたように、ヒンドゥー教と共通の部分を好む人ばかりで、正真のブッダの教えの部分に関心のある人はほとんどいません。

だから「仏教と言われているもの」「仏教と信じられているもの」のほとんどは、本当はヒンドゥー教なのです。本当の仏教の教えは、分量で言えば三蔵の四割くらいだと言いますし、内容で言えば「滅苦」や「無我」に関したものだけですが、それらのブッダの言葉に興味を持つ人は、現在のインドシナ半島にも少ないです。

だからインドシナ半島で生きたことがある人が他の国に生まれても、興味を持って近づくのは、やはり「ヒンドゥー教(特にジャイナ教)に酷似している仏教」、「瞑想と慈悲と肉食忌避の仏教」あるいは「仏教という名のヒンドゥー教」でしかありません。

今の世界は、キリスト教徒が約十九億人、イスラム教徒が十億人、ヒンドゥー教徒が八億人、仏教徒が三億人と言われています。しかし三億いる仏教徒のほとんどすべては、実質的にはヒンドゥー教です。

ブッダのライバルだったニカンダ ナターブッダマハーヴィーラ)の教義であるジャイナ教は、仏教と違って、ほとんどインド国外へは広まらなかったと言われていますが、卍のマークが世界中のいろんな教義で使われていることからも分かるように、ベジタリアンや程度を越えた動物愛護家やアンチ毛皮派や、瞑想愛好家や、ヌーディストなどが世界各地にいることからも分かるように、 実際には仏教より遥かに多く、世界中に広まっています。

しかし仏教のように名前が有名でないので、滅苦を目指す本当の仏教の教えを知らないので、西洋人は、日本人でも韓国朝鮮人でも、モンゴルやチベット人でも同一視して「中国人」と呼ぶように、、実はヒンドゥー教の教えや実践を人は仏教と呼びます。

だからブッダのタンマを学び、実生活の中で休まず実践して一つ一つ煩悩を減らす修行ではなく、「修行とは瞑想することだ」と執着している人は、繰り返しヒンドゥー教や大乗の地域で生きたことがあり、心にヒンドゥー思想への執着が沁みついている人かも知れません。


信仰を捨てる

ブッダのタンマに関心のある人は、当然「信仰」を好ましく思っていないと思います。神様の存在を信じ、神様に関して誰かが規定したすべてを、ただ「信じる」信仰を、愚かしいと感じ、危険と感じます。しかし一般に信仰と捉えられているのは、神様、ホトケ様(つまり死者、ご先祖)、地元の神様、お釈迦様から鰯の頭まで、そういった類の「拝むもの」だけです。

国語辞典には「信仰とは神仏などを信じて崇めること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分の拠り所とすること」とあります。国語辞典にあるだけしか知らなければ、それくらいしか思い浮かびません。それしか知らなければ、それしか防ぐことはできません。

私が初めて読んだタイの仏教書、チャヤサロー比丘の「心の友」の中で、「信仰とは誰も証明できないことを信じること」と言っているのを読んだ時、それまでの自分の愚かさ、迂闊さに気づき、その「深さ」に衝撃を感じました。

その言葉に出合うまで、どんな言葉も、国語辞典にある以上の深い意味を考えたことはありませんでした。それまで私は言葉を使う仕事に関わっていたので、広辞苑で言葉の意味を正しく知って、正しく使いこなすことだけで満足していました。

国語辞典の解釈の「崇めること」という理解は、幼稚園児でも分かるかもしれません。「教えを拠り所とすること」は、賢い中学生ならそのように観察できます。しかしこの定義は、信仰という言葉の本質を言っています。後でターン・プッタタートの話をたくさん読むようになってから、師は、重要な言葉をみな、本質レベルの深さで定義していることを知りました。しかし「信仰」という言葉のターン・プッタタートの定義は見たことがないので、もしかしたらチャヤサローさん自身の定義かも知れません。

この定義で社会を見ると、近代以前より、人が賢くなっているようにみえる現代にも、たくさんの「信仰」があることに気づきます。

子供にたくさん勉強をさせ、高い教育をつければその子供が幸福になるという現代の考えも、誰も証明していません。教育が原因で幸福になった人をあまり見ません。人がそう言っているだけ、時代の考えを信じているだけです。

栄養を摂れば、あるいはバランスの良い食事をすれば(サプリメント等も含めて)健康で長生きできるというのも、証明されていません。粗食で長生きしている人も、理想的な食事でも短命の人もいます。これも、推測と願望が作り出した、現代の信仰に見えます。

信仰をこの定義で見ていくと、現代流行っているいろんな修行も信仰に見えます。滅苦に到達できると誰も証明した人がいないのに、「到達する」と信じています。時には少し上達した人の噂に興奮することがあるかもしれませんが、それは禅定の面の話で、聖向聖果の発展ではないのに、仏道の進歩と勘違いしています。

感覚的な変化があれば、それ成果と見、好ましい変化があれば成果だと言い、良い変化がなければまだ足りないと言って更に励みます。あるいは手法が正しくないと言って、手法を変えます。これは信仰の特徴と同じです。

ブッダの教えは、実践すれば自分でその成果が感じられる(サンディティコ)ものであり、他人にも、こういう成果があったから「来て見て」と言える(エヒパッシコ)ものです。つまり自分で実証できるもので、信じる部分はありません。

更に見て行くと、幸福自体も信仰であることが分かります。ほとんどすべての現代人は、昔の人と違って、幸福が「ある」と信じています。幸福があると信じているので、それを手にするために必死で「獲得行動」をします。しかし、昔の皇帝のようにすべてを手に入れても、心の苦、体の苦からは逃れられないように、完璧で恒久的な幸福はありません。

幸福は一瞬のもの。水の泡、虹のような、一時的な現象です。水の泡は、一瞬見ることができますが、「ある」とは言えません。虹もしばらくの間しか見えないので、あるとは言えません。ただの現象です。

もっと深く考えると、「自分」というのも信仰だと分かります。私という存在は、泡や虹より少し長いだけで、一時しか存在しないことには変わりありません。生まれて存在して死んで行く、自然物質の変化の一部です。

信仰の愚かさを極力回避したいと望めば、最後には「私はいる」という、誰も証明できない信仰も捨てなければなりません。

三相の苦=ドゥッカター

四聖諦の苦と三相の苦は違うのですかという質問があったので、「耐えがたい状態」である苦、煩悩が原因である苦、つまり四聖諦の苦と、三相の苦の違いについて説明します。

三相とは、「万物の無常・苦・無我である状態」であることはご存じだと思います。パーリ語を調べて見たら、堪え難い状態という意味である四聖諦の苦は「ドゥッカ」ですが、三相の苦は「ドゥッカター」で、「ター」がついています

ヴィパッサナーをする時には必ずこの、「無常・苦・無我」の形で見なければならないので、これを理解することは、ブッダのタンマを実践するためには不可欠です。ヴィパッサナーとは「真実を見ること」と説明されていますが、現象である事実を見ることではなく、普遍的真実を見ることです。しかし真実を見ると言っても漠然とし過ぎて、何をどう見るのか分りません。ターン・プッタタートは、「何らかのものを無常・苦・無我で見ること」と言っています。

無常・苦・無我について「人間マニュアル」では、次のように説明されています。
『無常とは不確実なこと、すべてのものは常に変化している状態であり、変わらないものは何もないという意味です。苦とは、すべてのものは苦の状態であり、明らかな見解のない人の心を苦しくするという意味です。無我とは自分でないこと、すべてのものには実体がないので、これが自分、これが自分のものと捉えられる状態は何もないという意味です』。

無常は、たくさん説明する必要はないと思います。お茶やコーヒーが冷めるのを見ても、朝昼晩の変化や一年の季節の変化を見ても、人の一生や死を見ても、すべては変化していると、誰でも見ることができます。無常とは「既に見えている変化」だからです。

苦(ドゥッカター)は、「すべてのものは無常なので、それらに執着するべきではない」という無我に導く橋渡しをするタンマです。「明らかな見解のない人の心を苦しくする」という感覚は、中世の「あはれ」、現代語では「切ない」に近い感覚です。

中世の「あはれ」という感覚はそこで止まってしまって無我へ導かなかったので、「世を儚む」という感覚になりました。天皇や皇族や貴族など当時の知識人の多くは、無常であり苦である世間に厭きて隠遁生活をしました。(当時の仏教に無常と苦までしかないことは、実体はヒンドゥー教であることを表しています。ヒンドゥーには無常と苦まであるとターン・プッタタートが言っています。)

三相の苦は、たとえば桜の美しさは、どんなにもっても数日であることを、誰でも知っています。「一夜の嵐」ということも知っています。「想定外」などと言うバカな人はいません。すぐに散ると誰でも知っているので、その美しさと儚さを思うと切なく感じます。「私の桜」と執着できないと感じるからです。だから、さくらに執着する人はいません。さくらに無常と苦が見えるので、無我に近づきます。「無常」が「既に見えている変化」に対して、「苦・ドッカター」は、「未然の変化、まだ生じていない変化」です。

たとえばお祭りなどで売っている水素風船は、見ると綺麗なので幼い子は欲しがります。しかし大人は、翌朝には凋んでいる姿が見えるので、もったいない、詰まらない、もっと良い物を買って与えようと思います。大人は風船の翌朝の変化、つまり「苦」が見えるので、溺れて執着しません。だから大抵の大人は、水素風船に無常・苦・無我が見えます。

しかしその人も、綺麗な洋服や、格好いい時計などには未然の変化、「苦・ドゥッカター」が見えなければ、素晴らしさはずっと続くと勘違いして、欲しがり、所有し、溺れて執着します。この人には洋服や装身具等の「無常・苦・無我」が見えません。そういう物は詰らないと考える人は、詰らないと見ている物に「無常・苦・無我」が見えています。しかし、車や家には「無常・苦・無我」が見えないで、欲しがるかもしれません。


いろんな物質に「無常・苦・無我」が見える人も、名声や名誉や社会的地位などに「無常・苦・無我」が見えなくて、それらを渇望するかもしれません。

今自分の心を惹きつけているもの、自分が関心のあるものをよく見て、それは変化しないか、永遠に魅力的かどうかをあらゆる角度から見て、「変化しないものは何もない」と見、物質なら「一瞬後に燃えて無くなることもある」と見、抽象的なものなら「名誉や地位は、突然降りかかる火の子のような出来事で、すべてを失うこともある」とヴィパッサナー(自然法の)して見て、それらに対する執着を止めます。

カギカッコで囲った部分は、まだ生じていない変化、つまり「苦・ドゥッカター」を見ることです。既に見えている変化である無常は、常に意識しているかいないかの違いはありますが、誰にでも見えます。子供にも見えます。無常を、いま無常が見えている物だけの性質と見ないで、すべてに共通の性質と知れば、どんなものにも苦・ドゥッカターが見えます。

今自分の心を捕えるものを、一つ一つこのように「無常・苦・無我」でヴィパッサナーして、執着を捨てて行くと、一つずつ執着が減り、ある程度消えた時点で、ある時同じレベルの執着が一斉になくなります。そして一つ上のレベルのものを同じように「無常、苦・無我」でヴィパッサナーして、一つずつ減らして行くと、またある時同じレベルの残りの執着が一斉に消える、という繰り返しで滅苦に至ります。ターン・プッタタートはブッダの言葉に従って、このように「無常・苦・無我」で見ることが、ブッダが言われているヴィパッサナーと説明しています。

一番低いレベルは、体、つまり性欲や性欲に関わる人や物、生活すべてへの執着で、中間のレベルは、趣味や道楽のようなものへの執着で、最後のレベルは名誉や名声など、抽象的なものへの執着です。これらを段階的に捨てて行って、完璧に捨てれば滅苦は終わります。

このようにすれば滅苦ができそうかどうか、考えて見てください。これ以外の手法のヴィパッサナーで、本当に滅苦ができるか、考えて見てください。できると考えるなら、滅苦に至る過程に納得できる理由があるかどうか考えて見てください。

滅苦のためのヴィパッサナーに不可欠な「無常・苦、無我」、特にまだ知らない「苦」と「無我」をよく理解して、日常生活で心を捕えるものに出合ったら、そのものの「苦」と「無我」が見えるように、ヴィパッサナーする練習をして見てください。


タンマの実践は三本撚りの縄(補足)

ブッダの仏教の実践には智慧学が一番重要だということを、更に良く理解していただくために、もう一度同じ話題です。ターン・プッタタートは、仏教の実践だけでなく、「何をするにも戒・サマーディ・智慧が必であり、この三つは撚り合わさっているもので、別々にはできない」と言っています。

本当はどんな行動も同じですが、余り簡単なことでは例えにふさわしくないので、車や飛行機の運転を例にすると、これにも、戒とサマーディ(落ち着き又は集中力)と智慧が必要なことが分かると思います。教習所へ行くと、理論を勉強し技術を習います。これは智慧や知識の部分です。実際に運転をする時は、サマーディも必要です。注意力が散漫では運転できません。そして、適度なサマーディを生じさせ維持するためには、戒も必要です。

車の運転に戒が必要には見えませんが、動物や人を殺した後運転すれば、心が動揺して、必要なサマーディは期待できません。盗みをしても、他人の配偶者と密会しても、あるいは嘘をついても、心のサマーディは失われます。酒類を飲めば、物理的にサマーディが害されます。だから何をするにも、良い結果にするにはサマーディが必要で、サマーディを維持するためには戒が必要です。

サマーディがなければ、宛名一つ綺麗に書けません。サマーディがなければトーストも良く焼けません。サマーディがなければトイレットペーパーを切るような簡単なことも、きちんと出来ません。だから何をするにもサマーディは重要です。そしてサマーディを生じさせるためには、戒が必要です。

だからと言って、車の運転を習いに行ったら、サマーディの訓練から始めたらどうでしょう。飛行機の操縦を習いに行って、サマーディばかり何年も訓練されたらどうでしょう。オリンピックの体操やフィギアスケートには高いサマーディが求められますが、弟子入りして、サマーディの訓練ばかりさせられたらどうでしょう。

何の訓練でも、戒とサマーディはあるという前提で、最初から知識や技術を教えます。大人になった段階で、「人間として必要なサマーディと、そのサマーディを生じさせる戒はある」と見なします。言い換えれば、社会人に必要なことができるサマーディと、サマーディを生じさせる戒は、大人になるまでに家庭や学校で訓練されていなければなりません。

だから何かを習いに行っても、サマーディの訓練はしないし、戒も言い渡されません。柔道や剣道など、道という字がつくスポーツの「道」の部分は、「戒」であり、精神性を重視することで普通以上のサマーディをつけさせます。

しかし普通の物を習う時は、直接それまで知らなかった専門的な知識や技術を学びます。非常に精巧な技術なども、段階的に訓練すれば、それぞれの段階に必要なサマーディは自然に具わって行くので、サマーディの訓練だけをさせる職種、あるいは技能はないと思います。

飛行機の操縦は、車の運転より多くの知識を必要とします。車の運転は、バイクの運転より多くの知識が必要です。同じように、滅苦の実践には、四聖諦や八正道、縁起や五蘊や三相など、内面世界についてちょっと知識が必要です。しかし、多すぎると言うほど多くはないと考えます。

サマーディは、それらの知識を熟慮するために必要ですが、高度なことを考えれば考えるほどサマーディが深くなるという原則があるので、熟慮を始める前には、普通に戒のある生活、つまり「節度のある慎み深い生活」つまり、「世俗の喜びのない生活」をしていれば、普通のサマーディで十分だと思います。反対に、戒や節度のない暮らし、慎みのない生活、喜びを追求している生活をしていれば、普通のサマーディでさえ期待できません。

戒や慎みのある生活をしていれば、あとは使う知識次第で、何をしてもうまく行きます。サマーディしかしないで、戒と智慧を忘れているのが瞑想族で、知識ばかりで戒とサマーディを忘れているのが今の学習家です。戒ばかりで、智慧を忘れているためにサマーディも生じない人たちも、たまにいます。

ブッダの仏教の実践には、最初にサマーディにしようと考えるより、「サマーディを生じさせる生活」、つまり戒や慎みのある生活を心がけ、勉強は智慧の部分、「正しい見解」の部分を増やすこと(つまり自分の論理を捨て、自然の法則に合わせること)です。正しい見解で世界を見れば見るほど、熟慮すればするほど、サマーディは自然に深くなるからです。

タンマの実践は三本撚りの縄

ブッダの教えの目的は滅苦、すべての苦から脱すことです。何か素晴らしいものを得るのではなく、望ましくないものを捨てて本来の在り様(自然物質である体と心)に戻ることです。

「完璧な滅苦の方法」を発見したのはブッダだけなので、同じように完璧な滅苦を目指すには、すべてブッダの言葉でなければできません。ブッダの経を直接学んで実践した人の教えを試してみるか、自分で直接パーリ語経典(ブッダヴァチャナ)を学ぶか、二つの方法があります。

自分だけの方法、あるいは自己流で実践している人の教え、あるいは誰かが開発した方法では滅苦はできません。ブッダの門下のように見える人でも、自己流の方法を考案し説いている人がたくさんいます。滅苦の方法は、「ブッダ以外に知る人はいない」「厳密にブッダの系統以外にはない」と知ることが初めです。これはやがて「疑」を捨てる原因や縁になります。

ブッダが説いた滅苦の教えで、最重要なのは四聖諦です。苦の状態(苦諦)と、苦の原因(集諦)と、苦を滅した状態(滅諦)と、滅苦の道(道諦)が示されています。だからこの道諦を実践すれば、苦を滅すことができます。道諦は八正道とも言います。

ブッダは、涅槃の寸前に懐疑を質しに来た異教の人に、「八つの道(つまり八正道)のある教義には、阿羅漢がいる。八つの道のない教義には、阿羅漢はいない」と言っています。この言葉から、完璧な滅苦(阿羅漢になる)をするためには、八つの正しさがなければならないと言うことが分かります。

四聖諦と八正道は、ブッダが大悟した後、滅苦の教えは非常に難しいので、人間に教えようか教えまいか悩んだ末、人類の利益のために広めようと決意した初めての説教、初転法輪の中の経でもあります。そのことからも仏教で最も重要な原則であることが分かります。

初めは厳密にブッダにこだわらなくても良いのではないかという人がいますが、たとえば大工仕事など、小学校の工作で作る木箱のように簡単なレベルでも、構造はどんなに簡単でも、簡単なのは構造だけで、原理原則は厳格でなければならないのと同じです。初めから厳格な原則で、簡単な構造を勉強すれは、次第に難しいレベルへ発展して行きます。しかしいい加減な方法では、先へ進むことはおろか、簡単な構造の物も完成しません。

八正道を内容で見ると、智慧(正見・正志)と戒(正語・正業・正命)とサマーディ(正念・正定・正精進)の三種類に分けられます。これを三学と言います。この三つが揃っていれば、滅苦の実践になります。どれか一つだけ、一種類だけの実践では、滅苦の実践にはなりません。

多くの人は、心を鎮める実践、あるいは揺らさない実践、つまりサマーディの部しか見ていません。だから生じてしまったものを止めることはできても、次々に生じるのを止めることはできません。だからサマーディの力による一瞬の滅苦でしかなく、しかも発生は際限なく続きます。ブッダが言っているように、「八つ」あるいは「三種類」を同時にすれば、発生したものをサマーディで止めながら、戒と智慧で生じること自体を抑えることができます。

「戒学」を八正道で言えば、正しい言葉、正しい行動、正しい職業です。これらの正しさとはどんなことかを、ブッダの言葉で学び、ブッダの言葉と一致させます。ターン・プッタタートはブッダヴァチャナだけを基本に説いているので、師のいろんな話を読んで学ぶことができます。最初は「初心者のための仏教」二部四章で簡単に意味を掌握できます。

「三昧学(定学)」である瞑想を八つの正しさに当てはめると、正しいサティと正しいサマーディになります。しかしブッダの「正しさ」と呼ぶには、自己流や、誰かの自己流ではなく、ブッダの言葉(ブッダヴァチャナ)に依拠していなければなりません。心の、こういう状態をこうと見なすという規定は、ほんの少し違えばブッダのものでなくなり、滅苦のできない類になります。どれも似通ったものだからです。だからブッダ以外の手法は、わずかな違いでも役に立たない、と見る方が無難だと思います。

八つの正しさの中で、つまり仏教の実践で最も重要なのは「正しい見解」つまり「智慧学」です。正しい見解があれば、自然に「正しい望み」「正しい言葉」「正しい行動」「正しい生活」と、次々に正しさが生じるからです。反対に、正しい見解がないのに他の正しさを維持しようとすれば、非常な努力を要するばかりでなく、努力を止めれば、休めば、元の黙阿弥です。

正しい知識が最も重要なのは、何をする場合でも同じです。たとえば車の運転をするには、運転に関したした知識が一番大切で、集中力は知識を十分に使えるようにし、戒は、十分な集中力を生じさせるものです。戒と集中力は、使う知識次第で何でも成功させますが、知識と組ませなければただの部品にすぎず、目的のある働きをしません。


「正しい見解」とはどういうものか、プッタタート師が特にそれを主題に説いている話は、公開している訳文にはありません。しかしすべての法話は正しい見解のためと言うこともできます。弟のタンマタート著「初心者のための仏教」二部四章には「正しい見解」という見出しがあり、そこでは善、誠実、正義と、苦に関した知識(聖諦)が説かれています。

初心者の正しい見解はそれで十分ですが、初心者レベルを脱すためには、「因果律(縁生)」と「三相」の理解が不可欠です。四聖諦と因果律と三相を、ブッダが言った意味で正しく理解して、何を見るにも、「原因があって結果がある」「すべては変化するので、自分のものではない」と見れば、「実践者として十分正しい見解」と言えます。

つまりどんな危機に遭遇しても、どんな状況に遭遇しても、あらゆるものを因果律と無常・苦・無我で見ることです。そのためには、今挙げた重要なタンマを、ブッダが言った意味で正しく理解する必要があります。「本当にそうだ」としみじみ実感するまで、深く追体験する必要があります。

因果律とは、「すべては原因と縁によって生じ、原因と縁によって変化し、原因と縁が終わった時消滅する」という自然の法則です。だから原因と縁によって生じたものを嫌悪(怒り。無渇愛)せず、原因と縁がないために生じないものを求め(欲。渇愛)ず、原因と縁によって生じる変化を恐れず、原因と縁が終わって消滅したものを惜しまない(執着)ことです。

因果律をよく理解すれば、正しい原因をつくるために、自然に「戒」つまり言葉と体の正しさが生じます。口業、身業よりも、意業の量と威力が大きいことを学んで熟慮して知れば、正しい原因を作るために、自然にサマーディを生じさせる気持ちが生じます。言い方を変えれば、俗人が好き勝手な生き方ができるのは、因果律を知らないからです。因果律を本当に知れば、勝手気ままな生き方、智慧に欠ける生き方は、怖くてできなくなります。

三相とは、「すべてのものは、それを作り出した原因と縁によって常に変化している(無常)ので、無常が見える目でそれらを見ると哀れを感じる(苦)。何物も変化の途中の一時の姿でしかないので、それらを「自分」「自分のもの」「自分の何か」と執着することはできない」という知識です。

ターン・プッタタートは日没まえに」の中で、正しい見解は、「タタター(真如)」や「タンマディタター」「タンマニヤムター」などの真実を見るのでも良いとあります。ごく簡単に言えば、すべては原因と縁によって「なるようになる」「なるようにしかならない」「他になりようがない」という真実を見ること、見えることです。それも正しい見解と言っています。

その部分で更に、「幸福をプラスと見ていれば、まだ愚かです」と続けています。幸福や不幸、損や徳、善や悪など、どちらかの価値を捉えていれば、正しい見解ではないということです。「損も得もない。幸福な自分も、善である自分もいない」と見れば、正しい見解です。

これらの知識を、自分の重要な出来事を素材にして熟慮し、いろんな出来事をこの観点で観察すれば、「智慧学(慧学)」の実践になります。実際に何かが自分に振り掛かって来た時、これらの知識で対処できれば、その時知識は智慧になります。いつでも安定してこれらの知識を使うことができれば、智慧があると言います。

戒とサマーディの実践は、朝起きてから夜寝るまで、起きている間中、いつでもします。戒とサマーディは見えやすいので簡単です。智慧学は目に見えないので、習慣のない人には初めは大変です。しかし最も重要な「智慧になる知識」を学んで熟慮し、自然の法則である真実を観察するために、もっとたくさんの時間を使うべきだと思います。智慧があれば、他の二つは自然に生じるからです。ブッ教は智慧(自然の真実を知る)の教えです。戒やサマーディの威力で抑えない点が、ヨギーなどと違う点です。

戒(体と言葉の正しさ)とサマーディ(心の正しさ)と智慧(正しい知識を使う)が全部揃えば、それがブッダの言う八つの正しさになり、初めて滅苦の実践、本当のブッダの仏教の実践になります。すべてブッダの教えが基本にあるので、ブッダのタンマの実践と言えます。

ブッダが「八つの道がある教義には阿羅漢がいる」と言っているように、「八つ」を揃って実践する心には、厳密さと努力に応じて、滅苦が現れます。

実践を始める前に、その方法ですれば正しい結果が現れるという理由があるかどうか、良く聞いて(勉強して知り)、その行動がどんな理由でどんな結果を生じるか良く理解して、何も疑問が無くなってから始めるよう、ブッダは言っています。よく分からない部分を、推測や信仰で埋めて出発すれば、ブッダの仏教ではなくなります。