四念処の仕方

 

「四念処」で検索すると、Wikipediaも、他のどのサイトも、「体と、受と、心と、法を観る」と言っていますが、見てどうするか、何のために見るのか四念処の実践の仕方を終わりまで説明しているサイトもブログもありません。

しかしブッダが言われている四念処は、

身=呼吸、受=幸福、苦、どちらでもない三つ感情、心=貪・瞋・痴である心の状態、法=無常・苦・無我、これらの四つのものを見る時、ブッダは必ず「この場合の比丘は、平素から体の中の体を見、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です」と言われているのに、私が見た限りすべてのサイトは「観る」としか説明してなく、見ることの目的を知る智慧がないからです。

何を見ても、見るだけではほとんど利益はありません。いつも繰り返す例えですが、「お風呂の水を見て来ておくれ」と言われて、「溢れてた」とか「水が出てた」と見て来るだけでは「与太郎のお使い」と言われます。まともな人は水量がちょうど良いかどうかを確認し、適度か過剰ならすぐに水を止め、まだ足りなければ、しばらくして(水を止めるために)もう一度見に行きます。この場合の「見る」目的は、ちょうど良い水位まで水を張ることだからです。

 

瞑想や四念処の説明をする時に、サティという言葉を使っている人もいます。しかし、「見るだけ」と教えている人が言っているサティを上の例で言えば、水の状態を観察するだけのサティです。何のために見るのか気づくサティ、思い出すサティ、あるいは目的を知る智慧がなければ、適宜に水を張る目的は果たせません。

四念処で体・受・心・ダンマを見る目的は、平素から体の中の体(すべての受・心の中の心・すべてのダンマ)を見て、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまうためで、四つの物を見ることは四念処の目的ではなく、四念処は見ることだけで完結しません。


四念処を体・受・心・ダンマを見ることと理解している人は、見る目的を知らないのです。何のために見るのかも知らず、ただ見るだけで「何かになる」と信じて実践し、教えています。だから、本気で実践しても、与太郎に用事を言いつけるのと同じで、何の利益も効果もありません。これが四念処の本当の価値が分からず、実践する人も、教える人もいない理由の一つではないかと思います。

 
ブッダは『その比丘は体の中の体を見、いつでも煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です』と言われ、『世界の喜びと憂いを出してしまえる人なら、その時その人は体の中の体が見えています』と言われているので、それらを見る目的は「いつでも煩悩を焼く努力をし、サティと自覚があり、世俗の喜びと悲しみを捨てる」ことです。

体や受などを見るだけで、その都度煩悩を焼く努力をしないで、サティと自覚を維持しないで、世界の喜びと憂いを出してしまわない人は、体や受や心やダンマを見ても何も見ないのと同じで、煩悩を焼く努力をせず、サティと常自覚がなく、世俗の喜びと悲しみを捨てない人です。


朝起きてから夜寝に就くまで、四念処を正しく実践すれば、生じたいろんな感覚が捨てられてしまっているので、心に喜びも悲しみ(つまり妄想)もないことで正しいサティがあり、正しいサティから正しいサマーディが生じます。


つまり、体を見るのも、三種類の受を見るのも、心を見るのも、無常・苦・無我を見るのも、目的は「世俗の喜びと憂いを捨てること」と知らなければなりません。目的を知って実践すれば、初禅、二禅は普通にいつでも、三禅も時々しょっちゅう到達し、その感覚の中にいられます。


 

ブッダヴァチャナによる四聖諦」の「正しい努力」や「正しいサティ」「正しいサマーディ」の部分を読むと、語られているのは四念処かアーナーパーナサティ、あるいはアーナーパーナサティサマーディだけで、当然「瞑想」という言葉が意味する範囲の技法はありません。

そしてアーナーパーナサティについても、「アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧になる」と言われている言葉から、アーナーパーナサティは四念処の援けになるもので、四念処の方が重要であることが分かります。


このように素晴らしくサマーディを生じさせる効果がある四念処を実践する人がどうして少ないのだろう、と考えました。サマーディを生じさせようとする人のほとんどすべては、瞑想と呼ぶ範囲の技法に依存しています。瞑想を好んでする人のほとんどはブッダダンマに本当に関心がなく、あっても話すための知識としてだけで、ブッダに帰依する信仰がありません。


だから瞑想を好んで、瞑想に依存する人たちは、過去世でブッダの仏教を学んだことがない人ではないかということは、以前の日記に書きました。


 

しかし、四念処というダンマを知りながら正しく理解していないのは、ブッダは「実践については、自分で実践して、実際に(ブッダが言っているのと同じ)結果を出したことだけは教えて良い」と言われているそうですが(ターン・プッタタートが話しています)、ダンマを教える人たちが、その教えに背いて、聞いて知っているだけで、自分で結果を出していない方法を、仕入れた商品を転売する商人のように、(知ったふりや、自分が信じる実践法をブッダの手法と主張するためなど)自分の何らかの利益を求めて、次々に教え継いでいるからです。


つまり、実践原則を教える人が、自ら滅苦を目指す実践者(心が僧である人)でなく、世俗的な利益を追求する情報中継者(俗物)でしかないこと、これが四念処が見向きされない最も重要な理由だと思います。


滅苦の実践者は、説法を売り物(有料)にしたり、出稼ぎ説法をすることはあり得ないはずです。インターネットの時代になったことと物欲を捨て難い社会なので、ますますこの傾向(結果を検証しないで教える)は強くなると思います。


ブッダの教え通り、実践してブッダが言っている結果を出した人だけが教えれば、「観るだけ」の四念処が流布することはありません。そして方法もあいまいで言葉を濁す説明ではなく、具体的で、体験的で、コツや秘訣まで教えられるので、聞いた人がそれに従って実践すれば、ブッダが教えていることと同じ結果、その人が言っていることと同じ結果が得られます。


実践して検証したことだけを教えれば、教えられることはすべて、ブッダが教えたダンマと同じ威力があり、サンディティコ(実践者が自分で見えるもの)であり、アガリコ(時に左右されないもの)であり、エヒパッシコ(来て見てと言えるもの)であり、パッチャッタン(実践者だけが見ることができ、誰も妨害できないもの)になります。

 

何百年もの間、ほとんどすべての人が聞いてい知っているだけ(実践して結果を出していない)のダンマを教えているから、ブッダのダンマを学んでも、心が俗人の域から脱せないものになっているのだと思います。

 

実践して結果を出してから教えないから、珍しいと言うだけでいろんな瞑想法が流行り、仏教はますます失墜します。

結婚の実相

去年翻訳した話で、どれだったか憶えていないのですが、ターン・プッタタートが「現代の人は家に喜ばせる女性を置いて、それを体良く妻と呼びます」と言っているのがありました。師の話にはいつでもハッとするような部分がありますが、これを読んだ時、改めて「すごい」と感じました。現代世界に生きている人でこのように見える人が、他にいるでしょうか。

ひどくセクシーな女性や、家で家事も何もさせないで一方的に養っている昔の「お妾さん」のような存在なら「喜ばせる女性」と見る人はいるかも知れませんが、ターン・プッタタートは現代のすべての「妻」を夫を喜ばせる存在と見ています。これは、非常に深い本質を見る「心の目」がなければ見えません。

本来『女房』とは家政を切り盛りし、家業を手伝い、親や子を養い、その他いろいろな役割のある「職種」でした。もちろん子孫を残す役割もあります。夫も妻も家という最少社会で役割のある職位でした。だから妻にする女性には「女房」あるいは「主婦」としての技量が求められ、女性は良い妻になるために小さな頃からしつけられ、花嫁修業という教育もありました。

そして良い女房になる女性を選ぶ目がある親や親戚や職場の目上の人などが見つけてくれるのが普通でした。当然男子も長男は長男として、次男以下は次男以下としての教育をされて育ち、一般の子供の教育目標は善い夫、良い妻になることでした。そうすれば当然良い社会人、良い国民にもなります。家庭は家の跡取りである子供を作って、(優秀ではなく)欠陥のない社会人に育て上げる場所でした。

戦後生活が西洋化してから、妻は夫になる人が、夫は妻になる人が自分で選ぶものになりました。自分が選べば、主婦や主人としての資質や能力のある人ではなく、性的に魅了する人になり、その時から「妻や夫」は、勤めを重要とする職種や職位ではなく、「性的に自分を喜ばせてくれる人」になり、家庭は「愛の巣」つまり「愛欲の巣」になりました。家庭が愛欲の巣になると同時に親との同居を嫌い、あっという間に核家族化が進みました。

通常女性は程度の差こそあれ家事や育児をしていますが、それでも現代の妻たちを「喜ばせる女性」と呼ぶのは、現代の夫婦にとって最重要な問題は「性」だからです。一方的に性生活が無くなれば離婚の理由になり、他の人と性の関係ができれば、これも離婚の理由になります。

もちろん経済的な問題や、暴力や人間的に信頼できないなどの理由による離婚や、離婚騒動もあります。しかし現代人は性的な好みで結婚相手を選び、安定した性生活を確保するために結婚し、結婚生活も性に支配されています。極端な場合は性だけ満たされれば他のことはすべて大目に見て、お互いに勝手きままに生きている夫婦もいます。

昔は「夫婦は荷車の両輪」とか「夫は荷車を引く人、妻は後ろで押す人」などと言われましたが、今夫婦で車の両輪に例えられる人はあまりいません。同じ方向を目指して助け合う人ではないからです。夫婦が同じ目的に向かう協力者でなければ、それぞれ勝手な方向へ向かう旅の宿場で出会う「喜ばせる女性」「喜ばせる男性」と、変わりありません。特定単数で長期というだけです。

もちろん精神的なもの、知的なもの、あるいは能力や才能に満足して結婚する人もいます。しかしそれも「自分の性的伴侶としての条件」であり、性と無関係ではありません。そして知識や能力も家政に関係のない知識や能力であり、どういう女性が好みかというだけの話で、性が最重要であることに変わりはありません。だからターン・プッタタートは、「喜ばせる女性を家に置いて、それを体良く妻と呼びます」と言っています。

家に喜ばせる女性がいれば、家庭に居ることは遊廓に居るのと同じで、遊廓に寝泊まりして仕事に通っているようなものです。結婚を望む気持ちは二人だけの愛の巣、つまり二人だけの遊廓に住みたい望む気持ちです。家庭がこのような場所に変化してしまった現在、家庭をもった人が惑溺に陥らずに自分を維持するのは非常に困難です。

ガンジーは36歳の時に禁欲を決意し、妻にも協力を求めて守り続けました。そして、「性的関係がなくなってからの方が妻を人間的に深く愛せるようになった」と自伝に書いています。世間にはセックスレスの夫婦も多いと聞きますが、お互いに喜ばせる関係でなくなった時、お互いの体に渇望が無くなった時、初めて家庭にも心にも静かさが生じるように思います。

しかしそのように見える人はなく、「結婚は愛情が第一」、「幸福な夫婦には愛が不可欠」というような表層だけを見ています。深奥にある愛欲(性欲)を見て、「家庭は喜ばせる異性がいる場所」と見える人、言える人は、ターン・プッタタート以外にいないのではないでしょうか。

釈尊は空海の師

慧能の「壇経」を読んだ時、教祖の名前が「仏(当初は一字でブッダと読みました)」だったので、仏教がインドから中国に伝わった時、仏教の教祖は、当然ですが仏(仏陀)であったことが分かりました。それで機会を見つけて、何人かの中国と韓国の人に仏教の教祖は何という人か質問して見ると、発音は当然国によって微妙に違いますが、どちらも「仏陀」であることが分かりました。日本に入ってきた経も、「仏」となっていると分かりました。

それではなぜ日本人だけ「仏教の教祖はお釈迦様」と信じているのかを調べてみました。すると、日本で最初に「釈尊」という言葉が見られるのは、空海の「三教指帰」という書物だということが分かりました。空海はその中で「吾師釈尊」という使い方をしているそうです。空海大日経に触発され、中国で密教を学んで非常に満足し、土木や薬学など世俗の知識を持ち帰っています。どう見てもブッダの教えの外にいる人に見えます。

空海ブッダの仏教の外側の人間なので、自分が満足する教義の教祖を「仏陀」と呼ぶことを喜ばず、(四聖諦や八正道や縁起などのブッダの教えを説いた人ではない)自分が満足する教義の教祖を呼ぶ尊称として、釈迦如来からイメージした「釈尊」という名を考え出したと思われます。

初めは真言宗で使われていたものが、「仏陀」が教祖の呼び名であることを喜ばない、仏教と呼ばれるヒンドゥー教、つまり日本仏教のすべての宗派から歓迎されて、「仏(ぶっだ)」という呼び名はすべて「釈尊」に変わってしまったと推測します。その後「釈尊」という呼び名から、庶民用の「お釈迦様」という呼び名が生まれたのでしょう。その結果、日本仏教は「ホトケ様(死者)」と「お釈迦様」の宗教になりました。

そこへ明治以降、「仏陀」「ブッダ」が再上陸しました。もともと日本の仏教はいろんな教義の集合体なので、ブッダ釈尊が別人なのか、同一人物なのかも分からない状態になってしまったのだと思います。いずれにしても、「釈尊」「釈迦」という呼び名は、日本仏教にしかない呼び名で、日本仏教の特異性を表していると思います。

なので、ブッダの仏教を学ぶ人が空海をまねて本家の仏教の教祖を釈尊と呼ぶのは、どう見ても奇妙なので、本家の仏教の教祖は「ブッダ」と正確に呼び、釈尊は日本仏教の教祖と見なすのはいかがでしょうか。

なぜ生まれたのかを知らず、賢いという勿れ

ある方から「ターン・プッタタートのこういう内容の話はありませんか」と問い合わせをいただいて、「仕事はタンマの実践」を紹介したついでに、久しぶりに読んでみました。自分のお寺の弟子に話した菩薩日の説教(戒に関しての)です。そこで瞑想について、「他のお寺の人が瞑想をするのは自由ですが、みなさんはそういうことはしないでください。毎日座って瞑想だけをしているなら、生涯何もしなかったように見えます。生涯の時間を何に使うか、一生をかけて何をするかを考えてください」という意味のことを言っています。

人生をこのように大局的に見ることは、まだ人生の目標を見出していない人には、非常に重要です。人生に目標がなければ、毎日、興味や好き嫌いやその場だけの利益で行動をしています。毎日楽しいことだけをし、楽なことだけをし、得になることだけをし、そうして一日が過ぎ、一か月が過ぎ、あっという間に一年がすぎて、やがて一生が終わります。

面白いことも、得になることも、好きなことも、みんな「自分(自我または煩悩)」が基準になっているので、本人はどんなに愉しく夢中になっても、他人から見れば何の価値もなく、結局何もしていないように見えます。

友人知人の星(占い)を見ていた頃、「(あなたは)こういう性格で」と言うと、「それはあまり当たっていない」と言う人がたくさんいました。総合判断ではなく、いろんな角度からの見方なので、ほかに反対の特徴を示す星があれば、当然該当しない項目もあります。しかし、客観的には否定のしようがない歴然とした事実(性質)でも、それが歓迎できない内容だと、自我(主観)が強い人は思い込みである自分を自分と捉えているので、即座に否定します。

しかし静かに考えてみれば、思い込んでいる自分は、自分の頭(想蘊)の中にしか存在しない幻です。事実があるとすれば、客観的な事実だけです。

だから自分の人生について考える時主観を基準に目標を定めて、それに向かって生きても、客観的には「何もしなかったように見える」人生になります。主観は自我や煩悩が主体の見方です。自我や煩悩は捨てなければならないものなので、自我で生きた人生は、捨てなければならないものだけのような人生です。中島みゆきの「エレーン」という歌に、「死んで行って良かったヤツかもしれない」という歌詞がありますが、生涯自我だけに支配されて生きれば、死んだ後、他人にそう思われるかもしれません。

親や夫や、その他鬼籍に入った身近な人を思い起こす時、その人が無私、あるいは無我で行ったことは、思い出すと温かい気持ちになりますが、その人が煩悩で行ったことを思い出すと、哀れとしか言いようがない感覚が生じます。死後何十年たっても、煩悩は他人まで嫌な思いにします。

それならどのように生きるべきでしょうか。ターン・プッタタートが「人生は二頭立て」で、「大学ではなぜ生まれて来たのかを教えない。なぜ生まれて来たのかを知らないから、大学で学んだ知識を活用して得たお金を、自分の(五感の)望みを満たすために使う」と言い、「なぜ生まれて来たか知らないで、知識者だと己惚れてはいけない」と言っています。なぜ生まれて来たのかを知らなければ、その人の一生は、自然にある本来の生き物の目的、つまり仏教の目的から見れば無意味です。

性質にもよりますが、生きる意味を知らなければほとんどを煩悩に従って行うので、無意味どころか、悪徳製造マシンになります。正しい知識がないから自覚しないだけです。悪以外に、積み上げるものは何もありません。人生は衰退に向かい、死後は次に人間に生まれるまで、海中の生物や肥育される家畜に繰り返し生まれます。

現代人が考える悪人や悪行が破滅や苦を招くのではなく、無明のある普通の人は普通(平均的な)の生活をするだけで、破滅や苦の原因を作っています。自分の住んでいる世界しか知らず、自然や自然の法則、あるいは自然の摂理を知らないからです。

まず、世界は自分の願望で変化するのではなく、厳格な自然の法則で変化していることを知ることです。自然の法則では「私」という感覚は最悪で、すべての悪、すべての苦の根源と知り、「私」「自分」を捨てる目標をもつことです。「悪の多い自分」を「悪の少ない自分」にし、その「自分」という感覚を減らす目標を持つことです。

そうすれば来世は前世より良くなり、人間として生きた意味があります。悪業(自分の利益のための身勝手な行動)ばかりを作っ、て来世が前世より悪くなるなら、(タンマ、つまり自然の摂理を知らずに生きていれば、社会が悪くなっている分だけ、必ず来世は前世より悪くなります)、今回は人間に生まれるべきでなかった人、人間の生をまったく無駄にした人です。


輪廻はあるか否か議論するのは無意味です。ブッダも「議論するな」と言っているようです。しかし、それは、輪廻の存在を否定しているのではありません。議論して結論が出る問題ではないので、無駄なことはするなと言われているだけです。断見のある現代人は自分の都合の良いように引用しますが、「死後は何もない」という虚無論は邪見と断言しています。どうぞ命は一度だけではないと知ってください。

たとえば毎日住む部屋が変われば、部屋への愛着も、改善させる計画もありません。毎日仕事が変われば、熟練も上達も望みません。人生が一度きりなら、他人のことを考えず、周囲のことを考えず、後先のことに配慮せず、自分のしたいことをして生きるのが一番です。「旅の恥はかき捨て」という言葉がありますが、一度だけの場所では、恥になることでも、あえて煩悩を優先してしまいがちな、世俗の人の本音を表しています。

大人になってからしばらくの間は、したいことを自由にできる時間と機会があります。しかしその後は、自然の法則による結果と報いがあることを、周囲の人を観察して見てください。

現代は難病が増えていること、障害者が増えていること、障害の残る病気が増えていること、失業者や貧困が増えていること、殺されるために飼育(養殖)される生き物が増えていることなどを、熟慮して見てください。それらの原因は、すべて人の行動傾向の変化にあります。現代の社会は病んでいます。狂いかけています。これを正常な状態、普通の、当たり前の状態と見ないでください。

命は一度きりではありません。人生は一度きりと見ているから、この世は分からないことばかりなのです。体と言葉と心による行動の結果は、直接の結果だけではありません。

ブッダが説いたタンマを知らないうちは、心はまだ煩悩の奴隷であり、絶えず悪業と苦を作り出していると知ってください。現代人が楽しく夢中になっている行動は、ほとんどすべてアパーヤムッカ(破滅の入り口)です。自然の法則を学んで知ることで煩悩を減らし、自分の悪と苦を減らしていく目的を持ってください。

前述の「人生は二頭立て」に「二番目の水牛(テクノロジーのこと。物質的知識)だけしか知らない現代人の狂気の醜さ、嫌らしさ、哀れさ、悲しさを見てください」とあります。命は体と心で成立しているので、知識もテクノロジーに関わる知識と、精神に関わる知識が必要です。道徳や心の軌道がない社会では、若さや自由や幸福な暮らし、あるいは人間である一生は、物質面の発展と、精神面の退廃のためだけに使われてしまいます。

パーリ語の「マヌッサヤ=人間」という言葉は、高い心を持った生き物という意味です。高い心を持った生き物は、自己中心的な考えを捨て、愚かな人の中で賢く生きようと、悪の多い人の中で悪を減らす努力をしようと、狂った社会の中で、正気を維持したいと望みます。人に生まれて人間になることを目指す人を賢いと言います。


参考までにアパーヤムッカとは、

飲酒をする
夜遅くまで遊びまわる(必要のない外出)
催し(映画・芝居・音楽・試合・祭りなど)を見るのが好き
賭け事(宝くじ類やパチンコやある種のゲームも)をする
悪友(行いの善くない友)と交わる
仕事を怠ける(職務中の私用メールやインターネット、妄想も)

破滅の門と言われるものは、現代人にとって普通の生活です。


「人生は二頭立て」
http://space.geocities.jp/tammashart/housebon/jinseihanitoudate.html


いつか恋する君のために

「花は咲く」という東北地震の復興支援曲があります。「花は、花は、花は咲く。いつか生まれる君のために。花は、花は、花は咲く、私は何を残しただろう」というリフレインの最後は、「花は、花は、花は咲く。いつか恋する君のために」で終わっています。

子か孫か不特定の人かは知りませんが、いつか生まれてくる人のために、何かを残したい、あるいは残さなければという気持ちはいいですが、その「いつか生まれる君」の人生の目的のように、あるいは最高の幸福のように「恋する」という言葉が使われています。私はこの歌を聞くたびに、「物質(肉体)主義に傾きすぎた現代」というプッタタート師の言葉を思い出します。

私の子供の頃は、ほとんどの女の子の夢は「お嫁さん」でした。しかしお嫁さんになることと、恋をすることはまったく違います。「お嫁さん」は結婚の代名詞で、結婚は家を維持することであり、お嫁さんはその片翼を担う人です。「お嫁さん」や「結婚」という言葉には、ほとんど性的なイメージはありませんでした。しかし「恋」の先には必ずしも結婚がある必要はなく、「恋する」ことで目的は叶います。現代の「恋」は精神的に愛し合うことではなく、性的に楽しむことです。

自分の夢を託す「君」が生まれて来ても、その「君」の生きる目的が「恋」とは、今の社会に仏教的な物の見方は微塵も残っていないことが分かります。仏教は、「恋は性欲による満足を求める行動」と見て、「楽しいこと、幸福なこと」と見ません。恋は愛欲そのものであり、煩悩の産物であり、心を焼き炙るもの、突き刺すものであり、そしてあらゆる苦の原因と見ます。

「人は恋をするために生きる」という見方は間違った見解と知ってください。今は幼児から老人まで異性に時めく気持ちがあり、それを当然と見ています。しかし仏教の見方で物事を見ていない時、その時その人の心を支配しているのは煩悩であり、心にあるのは邪見です。心に邪見があれば、考えることも、発言も、することも、生活も、努力も、注意することも、集中することも、すべてが間違ったものになり、すべてが悪循環になります。今の世界に展開している多くの出来事のように。

独身の人なら伴侶を求める気持ちがあるのは当然ですが、それが人生の目的では情けないです。生殖を目的に生きて終わるただの動物と変わりません。生殖をしないで生殖の代価(欲情。快楽)だけ受け取るのですから、自然相手の詐欺師で、その点では動物以下です。

人間なら、伴侶と力を合わせて目指す、人間にしかない人生の目的がほしいと思います。まして結婚に繋がらないと分かっている恋愛感情を求めるなら、飲んでいる時だけ楽しくて、真実はアバーヤムッガ(破滅の原因)でしかない飲酒と同じで、呑んでいる間中、恋している間中、多種多様な悪の意業を作るので、後で必ず苦の実を刈り取らなければなりません。

ブッダの言葉を訳していたら、次のような経の一部がありました。

ある人がブッダに会いに行き、顔色が悪いとブッダに言われたので、「可愛いわが子が亡くなって、普通の顔でいられません」と答えたので、ブッダが「悲しみは愛するものから生じる」と言われると、「そんなことはありません。愛するものからは喜びが生まれるんです」と言って去り、去りながらブッダの弟子達に同じことを言い、ブッダと同じ返事を受けとって満足できず、最後に門の外にいた男に自分の考えを言うと、「そうだよ。愛するものからは喜びが生まれるに決まってるさ」と言われて満足した(要旨であって、そのままではありません)という話です。

この経の例のように、現代は「恋からは喜びが生れる」と見て恋を求める人ばかりです。恋からは苦が生じると見えるので恋を避けたがる人などどこにもいません。社会の大多数の人に正しい見解があった時代の文学や浄瑠璃には、「口説いてくる人は災厄をもたらす人」という見方がしばしば見られます。

多くの人に真実を知ってもらえるとは思いません。しかし少数でも「恋は心を苦にするもの」と見える人がこの日本いて、「いつか恋する君」ではなく、「いつも涅槃に近づく君」、あるいは「つねに人間として向上する君」のために「私は何を残しただろう」と考える人が、この先何十年、何百年も、絶えずに存在してほしいと願わずにはいられません。

タンマサラナ

私は「帰依」という言葉があまり好きではありませんでした。「信仰すること」「信じて従うこと」というイメージが強く、キリスト教イスラム教や大乗仏教などの信仰を基本とする宗教の、信仰誓約の言葉のように感じていたからです。

そんなわけで、「明るく目覚めた人」という「ブッダ」の意味を目指す宗教のはずなのに、なぜ帰依という言葉を使うのだろうと違和感がありました。

先日プッタタート比丘の「本当の命に出合う」という講義を読んでいたら、「帰依」と言う言葉に関する説明がありました。パーリ語サンスクリット語も同じ「サラナ」ですが、サラとは「駆けて行く」という意味で、「サラナ」とは「駆けて行く所」という意味だそうです。

この説明を読んで、歩き始めた赤ん坊が十歩歩いては母親の許に戻り、ニ十歩歩いては母親の許に戻る光景を思い浮かべました。あるいはもう少し大きくなった子どもは、何もなければ一人で遊んでいますが、何かある度に母親の許へ駆けて行って、助けや指示や慰撫を求めます。つまりそこへ駆けて行けば、最終的な安心が得られます。

幼い子どもにとって母親は「駆けて行く所」です。帰依という言葉をこうイメージすると、愚かしくも、従属的にも感じません。

それに、その講義で引用されているブッダの言葉は、「帰依する自分(アッターサラナ)」、あるいは「帰依するタンマ(タンマサラナ)」であり、よく言われているような「ブッダや僧に帰依する」という言葉ではありませんでした。

何か困ったことがあった時、幼子が母親のところに駆けて行くように、何があっても心が駆けて行く所がタンマ、つまりブッダの教えという意味なら、私は大分前からタンマに帰依しています。

生活の中の、物質面の技術的な知識は世俗の知識に頼りにしますが、心や考えに関しては、ブッダのタンマに出合ってから、どんな人の哲学や考えや知識や論理や名言などにも、あまり関心がありません。

それらもそれなりに良いには違いありませんが、ブッダの教えのように、完璧な滅苦まで系統立てられていないので、気休め程度でしかなく、本当の解決にはならないからです。

生活の中でいろんな問題が起きると、私はいつでも、それに関わるブッダの教えを探して熟慮します。


最近ある人から苦情が来ました。県外の問題なので、それを解決するには、他人の協力を求めるか業者に頼むか、いずれにしても費用や迷惑や手間や時間が掛かるので、いろいろ考えると苦を感じました。

苦を滅すにはブッダの教えが一番です。そこでなぜ苦なのか、自分の心を観察して見ると、費用がたくさん掛かるからだと分かりました。一度だけでなく、今後定期的に掛かります。年間何万円も、もしかしたらそれ以上かもしれません。

その人が苦と感じなければその出費は防げるのに、その人が苦と感じるために、私のお金が出て行きます。それで「そうだ、『私のお金』という考えが苦の原因なのだ」と気づきました。私のお金でなければ、例えば公的なお金などなら、必要な事には幾らでも簡単に支出できます。「私のお金」と思うから、「私」が喜ぶ使い方以外にできなくなると気づきました。

『最近読んだ本で、ブッダは「比丘は他人を困らせてはいけない」と言っている。私は比丘ではないが、他人を困らせてはいけないことに、出家も在家もないだろう。

「私」に関係あるものが原因で苦を感じる人がいて、私が費用を出せば解決できるのに、「私のお金」と執着して惜しんで何も対処しないことは、ブッダの教えに反すのではないか。

またブッダは「収入の四分の一で他人を助けなさい」と言っている。現在私には収入は無い。しかしブッダは、「収入の四分の一で生活し、四分の一は仕事のために使い、四分の一は他人を援け、残りの四分の一はもしものために蓄えなさい」と言っているので、生活と仕事に使う分を「自分のための費用」と捉えれば、自分のために使う費用の半分くらいは、他人を援けるために使いなさい、と解釈することができる。

その費用は、自分のために使う額より多くなってしまうかも知れないが、それは自分のために使う額が少なすぎるからで、金額の問題ではない。他人の苦情処理のために使うのは、他人の苦を取り除くこと、つまり他人を援けることに他ならないのだから、ブッダの弟子を自認するなら、喜んで支出しなければならない』。

とこのように熟慮しても、まだ「収入がないのに定期的な大きな支出を決めて大丈夫か」という心配が過ります。反対に「他人に迷惑を掛けながらその費用を惜しんで、後で自分のために使えば幸福か」という問いが生じます。

『人間の幸福の最低の条件は、誰にも危害を加えないことから生じるとブッダは言っている。迷惑も、苦情を無視し続ければ危害になるでだろう。

心の中の自問自答は、「タンマの自分」と「煩悩の自分」の討論だ。そんな時は、必ずタンマの自分の考えを採用すれば間違いない。それが「タンマサラナ」であり、「アッターサラナ」だ』。

このように熟慮した結果、業者に苦情処理である作業を依頼しました。「仕方なく」ではなく、ブッダの弟子でありつづけるために、満足して出費する気持ちになったからです。「自分のお金」と考えなければ、「自分のお金が減る」こともないので、「自分のお金が減る心配」もありません。

世俗の法律家が、何があっても六法全書に依存するように、私は何があっても、その度に、心は、知っているだけのタンマに駆けて行って、解決になる教えを探します。だから私は「タンマサラナ」、タンマに帰依しています。



「ブッダ最後の旅」の「不放逸」について

ブッダ最後の旅」という本の中に『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』という言葉があります。原始仏教関連の本は少ないので、ブッダの言葉を学ぶ人たちの間でこの本は有名です。しかし、この文の中の『怠ることなく』という語について、私は誤訳だと思います。

この部分の原語は appamaada で、意味は『不注意、迂闊、油断』だからです。水野弘元編のパーリ語辞典では、この語の意味は『不放逸』とあり、国語j辞典にある不放逸の意味は「怠慢、怠惰、勝手気まま」とあります。ブッダ最後の旅の出版年は辞書の出版年の五年後なので、この辞書が元になっているのかもしれません。

しかしappamaadaが不放逸では、ブッダが最期の最後に「勤勉」を説いたことになってしまします。怠けないよう勤勉にするには理性だけあれば足りるし、愚かな類の勤勉もたくさんあります。「勤勉」はブッダ以外でもたくさんの宗教や道徳家が説いています。そして『怠ることなく』勤勉にするのは、通常は仕事や勉強や修行なので、次の言葉が『修行』と訳されてしまいました。

ポーオーパユットー著、野中耕一訳の「仏教辞典」では、訳者は水野弘元の訳語のまま「不放逸」としています。しかし著者が直接三蔵の引用で説明している部分は、『念(サティ)を欠くことなく住すこと、念(サティ)で促しコントロールして、すべての実践・行為を自覚し、責任ある義務を常に念頭において、放棄することなく、真剣に周到に前進すること』とあります。

だから、訳者は「不放逸」という訳語を当てていますが、著者の説明は『不注意や迂闊や油断』という意味の説明になっています。「サティが欠けないよう維持し、サティで管理して、すべての行動を自覚し、義務を念頭におき、真剣に周到にすること」は「怠惰でない」話ではなく、「油断をしない」話です。

このように二つの理解がある場合、一般の人は他の事例を調べてみて、同じ事例がたくさんあれば多い方を正解と見なしがちです。しかし辞書などの根本が間違っている場合、そうした判断法は大きな失敗に繋がります。

仏教辞典の著者であるポーオーパユットーはタイのお坊さんなので、スリランカビルマではどのように使われているか調べる方法もありますが、それも簡単ではないのと、全部が同じ間違いをしている場合もあるので、多数の見解を正解とするのも正しくありません。あるいはみな違う場合は更にややこしくなります。

こんな時はブッダがカーラーマ経で教えているように、「誰が言っているから」とか「どの本にあるから」「みんなが言っているから」「ずっとそう言われているから」「自分の考えと一致するから」などという理由で正しいと判断して信じるのではなく、理由と自分の知性であらゆる角度から熟慮して判断するのが良いです。

「油断や迂闊」でないこと、「周到であること」には、心の静かさ、つまりサマーディ(三昧)と智慧が不可欠です。心に後ろめたさがあれば心の落ち着きは失われるので、サマーディのためには戒も必要です。これで、appamaada『油断のないこと』という言葉には、戒・定・慧の三学が必要になり、仏教の完璧な実践になります。怠けないだけでは、第一義の仏教の実践にはなりません。

もう一つの角度から見ると、不放逸、つまり怠慢、勝手気ままでないことは世俗的な仕事を成功させます。ブッダの教えの実践にも「勤勉」は欠かせませんが、八正道の一項目「正精進」でしかないように、ブッダの教えの実践の「一部」です。迂闊でないこと、油断をしないことは、既に説明したように戒・定・慧のすべてを必要とするので、ブッダの教えの実践のすべてが揃っています。

以上の理由で後者(油断のないこと)は仏教の教え、仏教の実践になり、怠けないことだけでは滅苦に繋がらないことが分かります。世間一般にあるいろんな宗教の教えと同じ(世俗諦レベル)なので、ブッダの仏教の教えや実践ではありません。

パーリ三蔵・長部マハーヴァッガの中の、智慧解脱について説明した言葉に、『彼は注意深くしなければならない仕事を成功させ、そして二度と不注意な人に戻ることはない』というのがあります。この文の「不注意」の部分に「不放逸」つまり怠慢や勝手気ままという意の訳語を使えば、解脱とは『怠慢でなく、勝手気ままでなく、勤勉になり、二度と怠慢に戻らないこと』になってしまいます。

そして前半の『すべての事象』という部分の事象は、サンカーラという語句で、サンカーラとは原因と縁によって生じたものすべてを意味します。しかしブッダが言われる場合、五蘊と世界が同じものであるように、サンカーラは心身のことを言います。山河や木や花など外部のものには目を向けず、世界のすべてを自分の内部である五蘊と見るように、すべてのサンカーラは自分の心身、つまり五蘊を意味し、あるいは行(考え)だけを意味することもあります。いずれにしても自分の内部のものであり、外部のものではないと信じます。

参考までに、この文章のプッタタート師の訳は、『今みなさんに忠告します。すべてのサンカーラ(行、つまり心身)は当然衰退します。今みなさんに忠告します。みなさん、自分と他人の利益(阿羅漢果、あるいは涅槃)を不注意でないことで完璧になさい』です。


このようにいろんな角度から深く読めば(熟慮すれば)、まったくパーリ語を知らなくても、間違いに気づくことができます。文字だけを読んでいたのでは、文字の意味しか分かりません。ブッダの教えを学ぶ時は、いつでもカーラマ経の項目を活用して「これで滅苦ができるか」と熟慮する眼で見ていただきたいと思います。

(誤訳を皆無にするのは困難ですが、重要な言葉の誤訳は、可能な限り修正されなければ、ブッダの教えが歪みます。私の訳文の誤りも、このようにして探し、そして発見なさったら教えていただければ幸いです)。